低賃金、貧困、引きこもり、孤独死、自殺……残酷な世界の現実と、「やればできる。私は変われる」といった自己啓発の福音から離れ、幸せの掴み方を探った名著『残酷な世界で生き延びるたった一つの方法』(橘玲著、幻冬舎文庫、2015年刊)。今なお衝撃の本書から、試し読みを一部お届けします。
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日本的雇用が生み出す自殺社会
日本では九〇年代後半以降、年間三万人を超えるひとたちが自殺しており、人口一〇万人あたりの自殺率は旧ソ連圏とならんで世界トップクラスだ。その原因は「新自由主義による貧富の格差の拡大」とされるが、ぼくはずっとこの説明が不満だった。“市場原理主義”の本家であるアメリカの自殺率は、日本の半分以下しかないからだ(日本の自殺率二五に対し、アメリカ、カナダ、オーストラリアは一〇、イギリスは五)。
だが日本的経営の「神話」から自由になって、“悲劇”の原因がようやく見えてきた。高度成長期のサラリーマンは、昇給や昇進、退職金や企業年金、接待交際費や福利厚生などのフリンジベネフィット(付加給付)によって大嫌いな仕事になんとか耐えていた。ところが「失われた二十年」でそうしたポジティブな側面(希望)があらかた失われてしまうと、後には絶望だけしか残らない。このグロテスクな現実こそが、日本的経営の純化した姿なのだ。
小池は、これも「常識」に反して、日本の会社では米国よりもはるかに厳しい社内競争が行なわれていると述べる。
日本の会社は、社員という共同体(コミュニティ)によって構成されている。そこでの人事は、経営者や人事部が一方的に決めるのではなく、「あいつは仕事ができる」という社員コミュニティの評判によっている。日本企業が社員を極力平等に扱い、昇給の際のわずかなちがいによって評価を伝えるのは、「評判獲得ゲーム」が金銭の介在によって機能しなくなることに気づいているからだ(これが成果主義が嫌われる理由だ)。
米国型の人事制度は地位や職階で業務の分担が決まるから、競争のルールがはっきりしている。頂点を目指すのも、競争から降りるのも本人の自由だ。それに対して上司や部下や同僚たちの評判を獲得しなければ出世できない日本型の人事制度は、はるかに過酷な競争を社員に強いる。この仕組みがあるからこそ、日本人はエコノミック・アニマルと呼ばれるほど必死で働いたのだ。
日本的雇用は、厳しい解雇規制によって制度的に支えられている。だがその代償として、日本のサラリーマンは、どれほど理不尽に思えても、転勤や転属・出向の人事を断ることができない。日本の裁判所は解雇にはきわめて慎重だが、その反面、人事における会社の裁量を大幅に認めている(転勤が不当だと訴えてもほぼ確実に負ける)。解雇を制限している以上、限られた正社員で業務をやりくりするのは当然とされているのだ。
ムラ社会的な日本企業では、常にまわりの目を気にしながら曖昧な基準で競争し、大きな成果をあげても金銭的な報酬で報われることはない。会社を辞めると再就職の道は閉ざされているから、過酷なノルマと重圧にひたすら耐えるしかない。「社畜」化は、日本的経営にもともと組み込まれたメカニズムなのだ。
このようにして、いまや既得権に守られているはずの中高年のサラリーマンが、過労死や自殺で次々と生命を失っていく。この悲惨な現実を前にして、こころあるひとたちは声をからして市場原理主義を非難し、古きよき雇用制度を守ろうとする。しかし皮肉なことに、それによってますます自殺者は増えていく。
彼らの絶望は、時代に適応できなくなった日本的経営そのものからもたらされているのだ。
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日本的経営とハッカー・コミュニティは、「評判獲得ゲーム」という同じ原理を持っている。一見奇妙に思えるけれど、これは不思議でもなんでもない。モチベーションという感情も、愛や憎しみと同じように、進化という(文化や時代を超えた)普遍的な原理から生み出されるからだ。
でも両者には、大きなちがいがある。
世間から隔離された伽藍(会社)のなかで行なわれる日本式ゲームでは、せっかくの評判も外の世界へは広がっていかない。それに対してバザール(グローバル市場)を舞台としたハッカーたちのゲームでは、評判は国境を越えて流通する通貨のようなものだ(だから、インドの名もないハッカーにシリコンバレーの企業からオファーが届く)。
高度化した知識社会の「スペシャリスト(専門家)」や「クリエイティブクラス」は、市場で高い評価を獲得することによって報酬を得るというゲームをしている。彼らがそれに夢中になるのは、金に取りつかれているからではなく、それが「楽しい」からだ。
プログラミングにかぎらず、これからさまざまな分野で評判獲得ゲームがグローバル化されていくだろう。仕事はプロジェクト単位になり、目標をクリアすればチームは解散するから、ひとつの場所に何十年も勤めるなどということは想像すらできなくなるにちがいない。そうなれば、会社や大学や役所のようなムラ社会の評価(肩書)に誰も関心を持たなくなる。
幸福の新しい可能性を見つけたいのなら、どこまでも広がるバザールへと向かおう。うしろを振り返っても、そこには崩れかけた伽藍しかないのだから。
残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法
貧困、格差、孤独死、鬱病、自殺……世界はとてつもなく残酷だ。しかし絶望は無用。生き延びる方法は確実にある。「努力すれば夢は叶う」と鼓舞する自己啓発書は捨てて、幸福の秘密を解き明かす進化の旅に出かけよう! 橘玲氏の原点と言える代表作。