がんばるのは悪、あきらめるのは善、「もっと」をやめよう——。過去を追わず、未来を願わず、今この瞬間の幸せを堪能できるヒントが詰まった『人生はあきらめるとうまくいく』(ひろさちや著、2012年刊)。静かに読み続けられている本書から、試し読みを抜粋してお届けします。
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本物の喜びとは何か?
私がインドを旅行した若い頃の話です。現地で読む本がなくなってしまって、一冊のインドの民話集を買いました。
そこにはこんな話がのっていました。
あるところに、九十九頭の牛を持っている金持ちの男がいた。
「あと一頭、牛を手に入れると切りのよい百頭になる。なんとか百頭にしたいものだ」
金持ちの男は、わざわざボロボロの服に着替えて、貧乏人になりすまし、幼なじみの男の家を訪ねました。
幼なじみの男の家には、牛が一頭しかいなかった。それでも細々と女房とともに暮らしていました。
そこに、大金持ちがやってきて、涙ながらにこう言ったのです。
「お前はいいなぁ、牛がいて。わが家は落ちぶれて、子どもたちを食べさせることもできない。幼なじみのよしみで、俺を助けてくれないか」
もちろん、すべて嘘です。
幼なじみの男は言いました。
「僕と君は幼なじみだったけれど、遠く離れてからは、すっかり君のことを忘れていたよ。自分は友だちとして、とてもすまないと思っている。
この一頭の牛がいなくても、女房と力をあわせて働けば、なんとかやっていける。わが家の牛を連れて帰って、子どもたちに牛の乳でも飲ませてやっておくれ」
金持ちの男は「ありがとう、ありがとう」と喜んで、牛を連れて帰りました。そしてその晩、彼は「ああ、これで百頭になった。よかったなぁ」と喜んで眠りにつきました。
同じ頃、友だちを助けることができた幼なじみの男も床につきました。「ああ、よかったなぁ」と言いながら。
さて、どちらの男の喜びが本物の喜びでしょう?
一晩の喜び、一生の喜び
私はこの話を読んだとき、目からウロコ、すごい話だなぁと感銘を受けました。
牛九十九頭を持っていた金持ちの男の喜びも、一頭しか持っていなかった貧乏な男の喜びも、喜びにはかわりありません。
しかし、金持ちの男の喜びは、たった一晩の喜びです。翌日、目が覚めると彼はこう思うでしょう。
「よし昨日で牛が百頭になった。今日からは百五十頭目指してがんばるぞ」
金持ちの男は、百頭の牛を百五十頭にするために、あくせくし、がつがつして生きないといけません。
たとえ牛が百五十頭に増えたとしても、それもまた一晩の喜びで終わるはずです。金持ちの男は必ず「次は二百頭に増やすぞ」と言い出します。
百頭の牛を百五十頭にしようと考えはじめた時点で、今自分のところにいる牛は、マイナス五十頭の計算になります。マイナス五十頭というのは、ゼロ以下の数字です。マイナス五十頭を四十頭にし、三十頭にし、ゼロ頭にしていくため、金持ちの男は、四六時中「あくせく、いらいら、がつがつ」しなければなりません。
この金持ちの男の生き方こそ、「がんばる生き方」なのです。
では、一頭の牛を友だちに譲った男の喜びはどんなものでしょう。一晩で終わるものではありません。一生ついてまわる喜びです。友だちのために牛を譲ったという気持ち。女房と力をあわせて働けばなんとかなるという気持ち。きっと女房も気がいい人なのでしょうね。二人で力をあわせて「のんびり、ゆったり、楽しく」働いていくのでしょう。
これが「あきらめる生き方」です。あきらめとがんばりでは、まったく方向性が違います。
「行為」ではなく「生き方」を選ぶ
「がんばる」のも「あきらめる」のも、みなさんはその場その場でとっている行為だと考えがちです。
がんばるか、あきらめるか、という問題は一つの行為を指しているのではありません。生き方の問題です。「がんばる生き方」なのか「あきらめる生き方」なのかが問われています。
ある一つの問題状況に立たされたときに、どうするかを決めなければなりません。そのときにはまず「自分はどういう生き方を選ぶのか?」という疑問を、自分自身にぶつけてみてください。
九十九頭の牛を百頭にすることを選んだ時点で、その人は「がんばる生き方」に決めたということです。一頭しかない牛をあきらめた時点で、のんびり、ゆったり、楽しく生きる生き方を選んでいるということです。
牛が一頭もいなくても、自由に、楽しく、のんびり生きていけます。
だとしたら、どちらの「生き方」が幸せなのか? どちらを選ぶのか? インドの民話は、それを私たちに問うています。
欲の正体をあきらかにする
問題状況の前で「生き方」にまで考えが及ばないのはなぜだと思いますか? 多くの人が、焦ってすぐにその問題を解決しようとするからです。
問題を解決する前に、落ち着いて、冷静になりましょう。そして「生き方」を考えてみてください。いきなり生き方を考えろ、と言われても難しいかもしれませんね。では、こう言い換えましょう。まず、あきらめてください。
「あきらめる」と言うと、ギブアップ、断念することを想像します。けれども本来の意味は違います。「諦(あきら)める」ではなく「明らめる」。物事をあきらかにすることです。
九十九頭の牛を持っている金持ちの男は、九十九頭を百頭にするかどうかという問題を前にしたとき、自分の今の状況をあきらかにしないといけなかった。彼は切りのいい百頭を目指した瞬間に、百頭にしたいという欲にとらわれてしまった。誰にも欲がある、と言いますが、欲は当たり前だ、と言ってしまってはダメです。欲がどこから出てくるのか、何なのか、あきらかにしなければなりません。
牛を一頭も持っていない人間が、一頭欲しいと思う欲もあります。この一頭は、生きていくために必要な牛です。それは生きたいという最低限の欲です。
ではこの欲と、九十九頭持っている人間が百頭に増やしたいと思うときの欲とは、同じものでしょうか。
私たちの抱えているほとんどの問題の答えが、ここに集約されています。
欲があるなら、その欲はどんな質のものなのか。欲をあきらかにしていくのです。すると、問題は自ずと解決していきます。
一つの問題状況のなかだけで考えない
自分の子どもが、勉強ができないと嘆く親がいます。クラスに四十人生徒がいたとして、三十番目だと「もう少し勉強ができるといいな」と思ってしまう。でも、三十九番の人間に比べたら、三十番は成績がいい。なぜ三十番の子どもがもっと勉強して成績をあげたいなどという欲を持つのでしょうか。
私の息子は、もう大人になり、大学で情報科学を教えています。彼が、大学に合格したときの話です。
「お父さん、僕に言ってくれたいい言葉を覚えている?」と言い出しました。
息子が中学生の頃の話です。英語の中間試験で九十四点をとって帰ってきて、嬉しそうに私に報告したのです。私はそれを受けて言いました。
「よかったな。でもこれは中間試験だろう? 期末試験は三十点くらいにしておけよ」
息子は、不思議そうな顔して黙っていました。
「期末試験が三十点なら、年間通して英語の成績は六十点になる。中くらいが一番いいんだ。お前、がんばっちゃダメだぞ」
困った息子は、しばらくうーんと唸うなりながら、自室に戻って答案用紙を持って来ました。そこには「九十四点」とある横に赤ペンで「やればできる! 次は百点目指してがんばろう」と書いてあったのです。
「いいか、この先生はお前の敵だぞ。この先生の言うことは絶対聞いちゃいけない。お父さんがお前の味方なんだ。
先生はお前が百点をとったときには、これでよし、とは言わない。二回連続百点をとろう、三回連続、四回連続百点を目指そう、と言うに決まっている。こんな先生の言うことを聞いていたら、お前はめちゃくちゃになってしまうよ。だから六十点くらいの成績にしておけばいいんだ」
話した私のほうは、すっかり忘れていたのですが、息子にとって私とのこのやりとりは衝撃だったようです。
「お父さんのあの言葉はよかったよ。僕は百点目指してがんばる人間だった。もともとそういうタイプなんだ。その僕でも、疲れることがある。嫌になるようなことがあったときに、お父さんはのんびりやれ、と言ってくれた。それで僕はとても気が楽になった。あのときお父さんにまで、がんばれ、と言われたら、つらかったと思う」
結局彼は、東大と京大の両方に受かり、東大に進みました。
いい加減でいいよ、ゆったり、のんびり、楽しくやればいいよ。私はそう言って子育てしました。もちろん、その結果ダメになる子もいるかもしれない。でも、それはもともとなまけタイプでダメなのだから、しかたありません。がんばれ、と言ったところで結果は同じです。結果が同じなら、のんびりやったほうがいいでしょう。
ある問題状況のなかでだけ物事を捉(とら)えて、「どうしたらいいのだろう」と焦り、当面のために、あくせく、じたばた、いらいら、がつがつ……。それは幸せではないでしょう。そうならないためにも、生き方を確立しておかないといけないのです。
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