がんばるのは悪、あきらめるのは善、「もっと」をやめよう——。過去を追わず、未来を願わず、今この瞬間の幸せを堪能できるヒントが詰まった『人生はあきらめるとうまくいく』(ひろさちや著、2012年刊)。静かに読み続けられている本書から、試し読みを抜粋してお届けします。
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「がんばる」生き方とは、政治家、官僚、財界人、資本家の生き方が含まれます。これはプロの世界の生き方です。プロになりたい人はなればいい。
「あきらめる」側、こちらはアマチュアであり、宗教の世界です。みなさんはプロの世界ばかり見ていますが、その反対もあるということを忘れないでください。
ほかの言葉も当てはめてみましょう。たとえば「がんばる」側には、「職業人」という言葉も入ります。「あきらめる」側にはその反対の言葉として「家庭人」を入れることができます。
みなさんがジレンマを覚えるのは、この両方のベクトルの要素が、一人の人間のなかでかち合うときだと思います。人間のなかには、職業人としての側面もあれば、家庭人としての側面もある。職業とは別に、社会人の面も、地域共同体に属している面も持っています。これらがしばしば衝突してしまうのです。
「忠ならんとすれば孝ならず」という言葉があります。忠と孝が衝突原理となってしまうことがある。忠というのは、社会人としての側面。孔子の論語に出てくる話です。
わが里に、大変な正直者がいた。あるとき、彼の父親がよその家の羊を盗んだ。正直者は窃盗の一件を知り、父親を告発した、と。
孔子は、このエピソードを批判しています。子は父親の罪を隠すべきで、それが本当の子の立場なのだ、と言っています。この論理でいけば、忠はパブリックな原理で「がんばる」側に、孝はプライベートな原理で「あきらめる」側に含まれます。
忠と孝がぶつかったとき、果たして日本人ならどうするでしょうか?
すぐに滅私奉公になってしまうでしょう。滅私奉公とは大日本帝国時の修身教育の思想です。「滅私」とはプライベートな原理を捨てること。「奉公」とはパブリックな原理を優先することです。日本人は、滅私奉公が行動原理として働くのです。職業人としての自分が全人格であるかのように振る舞ってしまうし、そうすべきだと思ってしまいます。アマチュア的な部分を捨てて、プロフェッショナルな部分だけを重視しようとします。
結局、あらゆる場面で経済活動を優先して、職業人として振る舞い、家庭人であることをやめてしまうのです。だから、政治や経済について思い悩み、マスコミの意見が自分の意見になり、世間が言うのだからそうしなければ、と考えるようになります。そんなものはほうっておけばいいのです。
「がんばる」側から「あきらめる」側へ
職業人としての場面では、がんばって問題を解決しなければなりません。でも、自分の人生全体を見渡したら、それ以外の場面がたくさんあるはずです。生き方を選びなさい、と言ったときに、がんばるのはダメだ、職業人ではいけない、とわかると、もう世捨て人になるしかないという勢いで極論に走ってしまう。今、ほとんどの日本人が職業人に重きを置いてしまっているのであれば、その比重を徐々にかえていきましょう、ということです。
ところが、最近では職業人でなくなった途端に、家賃が払えなくなり、住まいを失い、ホームレスになるしかなくなってしまう。挙句の果てには自殺をしてしまうという人が少なくありません。
大震災で被災された人たちのなかにも、こういうケースはたくさんあるでしょう。家も職も失い、再就職も叶わない。それでも避難所を出て仮設住宅に入ったら、家賃や光熱費を払っていかなければならない。そういう苦労を抱え、選択肢が用意されていないところで、苦しみながら生きている人もたくさんいます。
「がんばる」側から「あきらめる」側へと、生き方を模索していかないといけません。
まず、そういう状況に陥ったときでも、年金や失業保険などの社会保障できちんと生きられるようにすべきです。また、そうやって生きられる社会をつくらないのは政治家の怠慢です。
ただ、たとえ政治がまともでなかったとしても、自分をかえることができれば、簡単に解決できます。
居直って、居座ればいいのです。たとえばアパートから出ていかなくてはならなくなったら、行くところがありませんと言ってそこにいればいい。もしもごはんが食べられなくなったら、無銭飲食でもなんでもやって、刑務所に入ればいい。餓死したり、自殺したりすることはありません。
常識を捨てる
軽い犯罪で、刑務所に入って、みんなで刑務所を別荘にするような活動をすればいいと思います。実際にこれをやったのが、マハトマ・ガンディーです。ガンディーは、イギリスが植民地支配でインドに多額の税金をかけてくることに対して、刑務所をいっぱいにする運動で対抗しました。
当時のイギリスは、塩にまで税金をかけていました。ガンディーはそれに抗議し、「塩の進軍」という行動を起こします。みんなでボンベイ(現在のムンバイ)まで歩いていく。村人たちも続々と参列します。
何日もかけてボンベイの海辺にたどり着くと、彼は「さあ、これから私は法律を犯します」と言って、参加者たちと海水で塩をつくりはじめました。この地域は暑い場所で、海水をひとまきすれば、すぐに乾いて塩ができる。でも、勝手に塩を製造するのは法律で禁じられていました。
ガンディー一行は海水から塩をつくると、「さあわれわれを刑務所に入れなさい」と言い、イギリスの官憲たちが大変困ったそうです。サティヤーグラハ闘争と呼ばれる出来事です。
サティヤとは真実、アーグラハというのは堅固にするという意味。ガンディーにとってこの闘争は、真理を貫くための闘争でした。世間の常識から見たら刑務所に入るのは悪かもしれません。でも、それは真理とは関係ありません。餓死したり、自殺するより、いざとなったら、世間が言う悪人になってしまえばいいのです。
人生はあきらめるとうまくいく
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