『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』が話題の済東鉄腸さん。タイトルどおりの内容でありながら、語学や文学への深い洞察、SNSを駆使した行動力など感動と刺激が満載です。それにしても、母国語ではない言語で小説家デビューを果たすほどの語学学習とはどのようなものだったのでしょうか? 海外に一度も行ったことがなくとも日本の外に出ることができる可能性を示唆してくれるご寄稿です。
ルーマニア語のために3000-4000人にFB友達申請
俺は外国語を学ぶのが好きだ。
特にルーマニア語なんか学ぶには最高だね。
例えば変な単語を覚えるのだったり、それを使って文章を作るのが好きだ。“hipertrofie”っていう言葉は、ルーマニア語で“異常発達”って意味なんだけど、これ使って“hipertrofia conștiinței de sine 自意識の異常な発達”って文章作ったりね。
でも暗記力がないから、時間経ったらすぐ忘れちゃうんだよな。それに気づいた時はいつも“バカすぎんだろ”とか思うけど、そんな瞬間もどこか楽しんでる自分がいるわけよ。
こうして語学が好きになるまでには長い道のりがあった。
大学生活にも就活にも大失敗して、鬱病抱えて実家に引きこもるようになった時、俺は現実から目を背けたくてとにかくむやみやたらに映画観まくってた。そんな時にあるルーマニア映画に出会った。
その“Polițist, adjectiv”(“刑事、形容詞”という意味だ)って映画は警察官の主人公がある少年を逮捕するか否かで良心の呵責に苛まれるって作品だが、主題の1つが言語というかルーマニア語それ自体なんだよ。書類における文法の間違い、冠詞の有無、ある歌の歌詞における意味不明な反復表現などが主人公を悩ませるなか、終盤において彼は警察署長に呼び出され、ルーマニア語の辞書を目の前にドンと置かれる。そして“法”や“警察官”、“良心の呵責”という項目を読まされた後“個人的な倫理よりも、辞書が示す公的な倫理に奉仕せよ!”と激詰めされるのだ。
このルーマニア語って言語そのものの存在を根底から問い直すような場面には文字通り、脳髄を辞書でブン殴られるような衝撃を覚えたよ。これがきっかけでルーマニア映画を観まくる日々が始まったが、数を重ねていくうちルーマニア映画をもっと深く理解するためにはルーマニア語を学ぶ必要があると勉強を始めたんだ。
まずは日本に数冊しかないルーマニア語テキストを買って、地道に文法を学んでた。そっからネットでルーマニア語の映画批評や下ネタ記事を探し、ひたすら読んでいく。そうすると学んだルーマニア語で誰かと喋りたくなるから、Facebookで3000-4000人に友達申請送って、申請を受理してくれた人とMessangerで話したりする。友人が増えれば増えるほどFacebookのタイムラインはルーマニア語で埋め尽くされ、タブレットにはいつだってルーマニア語の文章が並ぶ。こうしてルーマニア語が俺の日常に根づいていったわけよ。
で、学んでいくうちにたくさんの驚きとも遭遇したんだ。
例えばルーマニア語の名詞には何故か男性形、女性形、中性形と性別がある。しかもそれで複数形の形とか、語尾につける定冠詞(英語の“the”みたいなやつよ)の形が変わんだよ。
さらには動詞が主語によっても変化するわ、過去形は3種類あるわ……一体全体こりゃ何なんだよ?!
だけどそうやって勉強を続けてたら、日本語とも英語とも全く違うルーマニア語って言語に自然と魅了されていた。実家の子供部屋に引きこもって、テキストと向き合って文法を学んでいたり、タブレット越しにルーマニア文化を目の当たりにしていると自分の惨めな現状を忘れられたし“ここではないどこか”へと旅立ってるような気さえしたんだった。
だが何よりも、新しい言葉を学ぶこと自体がマジで楽しかった!
そして楽しいからどんどん続けていたらルーマニア語で小説家になったりするわけだが、今回はここで止めておこう。他にもっと語りたいことがあるからね。
“語学=趣味”であることのすごさ
語学っていうのは、特に日本では基本何かの手段として扱われることが多いだろう。外国人とコミュニケーションを取るためとか、仕事で使うためとか、その言語が使われている国で生活するためとかね。
斯く言う俺も、先に書いた通りルーマニア映画をより深く理解するためにルーマニア語を勉強していたわけで、最初は手段だった。だが勉強するうちにルーマニア語に魅力を感じ、勉強自体が楽しくなってきた。そうすると手段が目的を凌駕し始め、とうとう当初の目的をブッ飛ばして“ルーマニア語を勉強する”それ自体が目的の座についてしまう。こうなるともう誰に言われるでなく、何に影響を受けるでなく勝手にルーマニア語を勉強しちゃうんだ。
言うなればルーマニア語ひいては語学ってのは俺にとって完全に“趣味”なんだ。
趣味つったら軽い響きがあるが、いやいやこれこそが重要なんだよ。
趣味は仕事のように成果には繋がらないし、お金を稼げるということはほとんどない。逆にそうなる必要がない。純粋に楽しさにこそ突き動かされてやるものだ。趣味ってのは自由だ。
さらに趣味をやっていると、仕事やその他様々なしがらみを一旦忘れることだってできる。俺の場合は引きこもりって惨めな状況を一時的に忘れることができた。ある種現実逃避ではあったが、そういう時間も今後への鋭気を養うためには重要だったと思う。
そんな状況で外国語を学んでいると、魂が別の国というか場所へと飛翔するような感覚があるんだ。自分が日本にいるってことすら忘れて、遥か彼方にあるルーマニアにいるような気分になった。
“Îmi pare bine de cunoștință お会いできて嬉しいです”なんて表現を見ると、ルーマニアのアンリ・コアンダ国際空港に降り立ち、友人に迎えられる自分の姿が思い浮かぶんだよ。
そしてだ、その国の文化ってのは実際にその地を踏まなきゃ学べないって考えが一般的だってのを感じているが、俺としては言葉を学ぶことを通じてでも文化は学べると堂々言っていきたい。
例えば“Trebuie să zici povestea cu voce de urs クマみたいな声で物語を語らなくてはならない”なんて不思議な表現を見つけた。まずこの時点で日本とは全く別の形でクマがルーマニアに根付いてるってのが伺えるだろう。
そしてこれを起点にルーマニア語を駆使してネットで検索してみれば、驚くほどたくさんの情報があることに気づくはずだ。なんでも“ursuzenie”って古語があって、その意味は“クマのように不機嫌で非友好的な態度”だそうだ。
いや何やねん、その言葉!
こういう風に文化を探求するのが楽しいんだよなあ。
語学が授けてくれる“翼”
ところでなんだが、俺はサピア=ウォーフの仮説って理論が好きなんだよ。
これは“言語は人間の思考を規定する”ってことを体系化した理論なんだけどさ、俺としては“何らかの概念を言葉で示せなければ、その概念の存在を人間は認識できない”って人間の思考の限界を表しているように思える。
だが翻してみるなら、もし新しい言葉や、さらに新しい言語を学びとるとするなら人間はその限界を内側から拡張していくことができるんじゃないのか?ってすら思えるんだよ。
俺としちゃ、実際に外国に行くことが新しい世界を知るための唯一の方法だとは思わない。外国語を学ぶこともまた1つの方法なんだよ。
そう、語学は俺たちの魂に翼を授けてくれるんだ。
だから俺は今日もタブレットを通じてルーマニア語を勉強してる。
今学んだ“Nagâț ナグツ”って単語は鳥の“タゲリ”を意味してるらしい。冬は日本の田園で過ごし、夏になるとユーラシア大陸へ旅立つんだってさ。
それじゃ俺たちもタゲリたちみたいに飛び立とうじゃないか!
日本脱出のための語学
海外で働くことが「夢」だった時代から、いまや切羽詰まった「現実」に。円安が長引き、賃金も上がらない低迷日本を飛び出し、海外で出稼ぎする若者も出てくる昨今、必要なのはやっぱり語学。日本をいつでも脱出できるくらいの本気度で、語学を学び直し!