100年以上も前の法律でいまだに中絶が基本的に「犯罪」とされる日本。安全な中絶が今や国際的に「女性の権利」とされる中、経口中絶薬の承認や配偶者同意など問題は山積みです。歴史的経緯から日本の中絶問題を明らかにする書籍『日本の中絶』(ちくま新書)より、一部を抜粋してご紹介します。
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オカルトブームに乗って「発明」された水子供養
1970年、アメリカのニューヨーク州が中絶を女性の権利として認める法律を導入した年、日本では「実質的な中絶の自由」に対する逆風が強まります。保守派の自民党議員から優生保護法の経済条項削除を求める動きが起こり、新聞では中絶を「胎児を抹殺する行為」「母性の喪失」などと訴えるキャンペーンがはられました。
折しも1970年代の日本ではオカルトブームが巻き起こり、中絶や流産した胎児を指す「水子」という言葉はマスメディアで喧伝されるようになりました。週刊誌にも、家庭内のトラブルをすべて「水子のたたり」として供養を促すような記事が溢れましたが、大半は水子供養寺院とのタイアップ記事だったと言われています。
鈴木由利子によれば、「水子地蔵」が大量生産され始めたのは1972年です。ハーデカーも、水子供養は「明らかに現代的な現象」であり、1970年代半ばから始まった商業主義的な水子供養キャンペーンのなかで水子供養という観念が形成され、喧伝されたことで定着したと見ており、浄土真宗の見方を紹介しています。
浄土真宗では、水子供養は人為的に作られた新しい儀礼だと強調し、その証拠として「商業化された水子供養の形式は紫雲山地蔵寺を創始した僧侶で右翼活動家であった橋本徹馬によって、1970年代に発明された」としています。さらに「水子供養は、中絶を経験した人々の不安や後悔を食い物にする狡猾な搾取であって……女性に中絶の罪や責任をすべて押し付ける不公平なものでもある。水子供養は通俗的で商品化された寄生の一形態であり……その実践者は道徳的に腐敗しており、その理由は彼らが中絶の周囲にある混乱した感情につけ込んで、中絶は悪いことだと感じている女性たちの不安から利益を絞り取りながら、彼ら自身は、決して女性たちを不安から救おうとはしないためだ」と激しく批判しています。
水子供養は「人為的に作られた儀礼」なのです。水子供養は檀家離れが生じた寺院にとって重要な収入源となり、オカルトブームにのって雑誌や書籍、テレビなどのメディアも水子供養ブームをあおりました。
現在、日本各地の寺社で行われている水子供養の多くがこの頃に始められたものです。水子供養専用の紫雲山地蔵寺が開山されたのは1971年9月。初代住職には右翼の橋本徹馬氏が就任、落慶式には佐藤栄作総理をはじめとする政治家が参列しました。水子供養は人々に宗教的な慰めを与える単なる儀式ではなく、合法的な中絶の制限に向かおうとする保守派の政治家にとって重要なアピールの場でもあったことがうかがわれます。
こうした政治家やマスコミの言説に乗って「水子供養」はにわかに広まっていきました。しかも、この時代の水子供養の文脈では、母の罪と「水子のたたり」がことさら強調されました。このように日本における中絶への罪悪視は、宗教的な倫理観に起源をもつ欧米諸国とは異なり、社会的な諸事情によって構築されたと考えられます。まず、戦後に膨大な数の中絶が行われたという事実があり、人道的に問題のあるケースも少なからず含まれていたと推測されます。
「被害者としての胎児」のイメージが流布され、中絶がタブー視されるように
さらに、後述する通り、掻爬法と呼ばれる外科手術で「赤ちゃんが掻き出される」といった残虐な、必ずしも実態に即さないイメージが水子供養ブームで流布されました。母親が子どもを遺棄したり殺害したりする事件と中絶や水子供養に関するニュースが一緒に報道されることで、田間泰子のいう「母性喪失を組み込んだ中絶と子捨て・子殺しとのカテゴリー統合」が達成され、「中絶は女性の罪」という物語が作り上げられたのです。
水子供養の物語の文脈において、メディアは女性と胎児を切り離して対立的に描き、もっぱら「被害者としての胎児」に注目を集めました。その裏に存在していた苦悩する女性たちは「加害者」として糾弾され、女性たちは罪の意識から沈黙しました。結果的に、中絶に対するタブー視が強まり、女性の苦悩は置き去りにされてきたといえます。
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この続きはちくま新書『日本の中絶』(塚原久美 著)をご覧ください。
日本の中絶
100年以上も前の法律でいまだに中絶が基本的に「犯罪」とされる日本。安全な中絶が今や国際的に「女性の権利」とされる中、経口中絶薬の承認や配偶者同意など問題は山積みです。歴史的経緯から日本の中絶問題を明らかにする書籍『日本の中絶』(ちくま新書)より、一部を抜粋してご紹介します。