NHK大河ドラマ「どうする家康」の放映もあり、主人公である徳川家康とその最強の宿敵・武田勝頼が注目されるようになりました。ふたりの熾烈な対決は、実に9年にも及びました。その間に起きた合戦や事件の知られざる側面を、「どうする家康」の時代考証担当の平山優さんが解説します。
5月31日発売の『徳川家康と武田勝頼』から一部を試し読みとしてお届けします。
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武田勝頼の登場
武田軍が去った遠江で、家康が反撃に転じている頃、武田家では信玄の後継者となった勝頼が、家中のとりまとめに苦慮していた。そもそも勝頼は、信玄の四男で、信濃諏方(しなのすわ)家の後継者とみなされ、諏方四郎と呼ばれていた。そのため、彼の諱(いみな)には、武田家の通字(とおりじ)「信」が、信玄の息子たちのなかで唯一つけられてはおらず、諏方家の通字「頼」を戴いていたのである。しかし、勝頼は祖父諏方頼重(よりしげ)(諏方惣領〈そうりょう〉家)の名跡を継いだものの、その本城たる諏方上原(うえはら)城には入城せず、高遠(たかとう)諏方家の居城高遠城の城主となるなど、諏方家の後継者としてもかなり変則的な立場に置かれていた。そのため、勝頼自身は「諏方四郎神(じん)勝頼」と名乗っていたが、同盟国北条(ほうじょう)氏からは「伊奈(いな)四郎」などと呼ばれていた。
このように勝頼は、ほんらい武田家を相続する立場にはなかったのである。ところが、永禄(えいろく)八年(一五六五)十月の義信(よしのぶ)事件を契機に、勝頼の運命は大きく変転していく。勝頼の異母兄義信は、甲尾同盟(武田と織田信長との同盟、永禄八年九月盟約、十一月成立)をめぐって、父信玄と激しく対立し、クーデターを計画したのである。これは信玄が察知し、計画は失敗に終わった。だが、この事件で、異母兄義信は廃嫡(はいちゃく)となり、永禄十年十月、甲府東光寺(とうこうじ)に幽閉されたまま病歿する(享年三十)。
永禄十年の段階で、信玄の息子で、後継者になりうる年齢まで成長していたのは、次男龍宝(りゅうほう)(当時二十七歳)と四男勝頼(当時二十二歳)の二人だけで(三男信之〈のぶゆき〉は夭折〈ようせつ〉)、その下の五男盛信は当時まだ十一歳に過ぎなかった。ところが、龍宝は天然痘の奇禍により失明していたため、四男勝頼が信玄の後継者に据えられることとなったのである。
勝頼は、永禄五年から高遠城主として、同七年には一軍を率いる物主(ものぬし)として(丸島和洋・二〇一七年(2))、そして義信に次ぐ「事実上の次男」として扱われていたものの、まさか信玄の後継者に指名されることになろうとは、予想もしていなかったであろう。ましてや、家中の家臣たちからすればなおさらである。
元亀(げんき)元年(一五七〇)、勝頼は高遠から甲府に移り「武田」に復姓した。この時、父信玄は、室町幕府将軍足利義昭(よしあき)に、勝頼への任官と偏諱(へんき)を申請したが、交渉は失敗に終わっている。その理由は定かでない(丸島和洋著・二〇一七年)。その後、信玄は勝頼の改名や任官に奔走した形跡はない。勝頼は、父信玄とともに、各地を転戦し、物主としての実績を積んでいくが、重臣らにとっては、信玄の息子であるとはいえ、勝頼は同僚であり、主君として仰ぐにはまだ時間が必要であった。ましてや、勝頼は諏方家の人物という印象は否めなかったと考えられる。もし信玄が後見として勝頼を支え続けていれば、家中の人々との調整は順調に進み、家督相続は難なく行われたであろう。だが、わずか三年余で父信玄は死去してしまったのである。
勝頼は、父信玄は病気のため隠居したと公表し、自身の家督相続を宣言した。だが、重臣らとの間で軋轢(あつれき)があったらしく、勝頼は彼らとの関係調整に意を注がねばならなかったらしい。信玄死去から十一日後の四月二十三日、勝頼は、重臣内藤修理亮昌秀(ないとうしゅりのすけまさひで)(西上野〈にしこうずけ〉国箕輪〈みのわ〉城代)に三ヶ条の起請文を与え、互いにわだかまりなく尊重しあうこと、勝頼は自分のためを思って意見してくれるのであれば聞き届けること、勝頼と不仲な人物であっても今後しっかり奉公するというのであれば無視せぬことなどを誓約している(戦武二一二二号)。このことは、新当主勝頼と重臣層との間で、何らかの衝突があったことを物語っており、勝頼の家督相続は波乱の幕開けとなったのであった。
そのような状況のため、武田氏の動きはさらに停滞を余儀なくされた。信玄の病気が重篤になった元亀四年二月から数えて、すでに二ヶ月が過ぎているなか、さらなる武田氏の活動低下は、家康にとって貴重な息継ぎの時間となったのである。