NHK大河ドラマ「どうする家康」の放映もあり、主人公である徳川家康とその最強の宿敵・武田勝頼が注目されるようになりました。ふたりの熾烈な対決は、実に9年にも及びました。その間に起きた合戦や事件の知られざる側面を、「どうする家康」の時代考証担当の平山優さんが解説します。
5月31日発売の『徳川家康と武田勝頼』から一部を試し読みとしてお届けします。
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大岡弥四郎の謀叛と岡崎の危機
天正元年(一五七三)九月、家康は三河長篠城に、五井(ごい)松平景忠(かげただ)を配備し、防備を固めさせた。その後、家康は、天正三年二月二十八日、奥平信昌(のぶまさ)を長篠城へ入城させ、城主に任命した。
信昌は、長篠城の大改修を行い、要害堅固な城に作り替え、家康を喜ばせたという。長篠城跡の現状遺構は、信昌の改修によるものといわれている。
だが家康は、武田氏に対抗するために、三河・遠江(とおとうみ)の諸城に備蓄すべき兵粮(ひょうろう)の手当てまでは、到底追いつかなかったようだ。このため織田信長は、家康に兵粮の支援を行った。まず、天正三年三月、近江(おうみ)国坂田(さかた)郡鎌刃(かまは)城に備蓄されていた米二〇〇〇俵を家康に送った。さらに重臣佐久間信盛を家康のもとへ派遣し、兵粮の引き渡しと、徳川方諸城の検分などを行わせ、徳川と対武田戦の協議を行わせた。もはや、徳川氏は、織田の支援なくして、武田勝頼と戦うことはできなくなっていたのである。
家康が、信長の支援を受けつつ、武田氏の襲来に備えている頃、家康の本拠地岡崎(おかざき)で、武田氏の調略を受けたクーデター計画が、秘かに進行していた。岡崎城には、家康の嫡男(ちゃくなん)松平信康(のぶやす)と生母築山殿(つきやまどの)が在城していたが、その家臣団である岡崎衆は、武田氏の調略により、着々と切り崩されていたのである。
その中心人物は、岡崎町奉行大岡弥四郎(おおおかやしろう)であった。この事件の経緯は、『三河物語』の記述が著名である。その内容を紹介してみよう。
天正三年(一五七五)、家康譜代の御中間(おちゅうげん)大賀(大岡)弥四郎という人物が謀叛(むほん)を企てた。弥四郎は、奥(おく)郡(三河国渥美〈あつみ〉郡)二十余郷の代官を務め、何不自由のない生活を送っていたにもかかわらず、家康を討ち、岡崎の城を奪い、自分の城にしようと企てたのだという。そこで、小谷甚左衛門尉、(じんざえもんのじょう)倉地(くらち)平左衛門尉、山田八蔵(はちぞう)らを味方に引き入れ、武田勝頼に話を持ちかけ、手を結んだのである。勝頼と密約を結んだ弥四郎は、家康・信康父子に腹を切らせる計画はもはや成功したも同然とほくそ笑んだ。というのも、家康が岡崎城に入城する時は、弥四郎が先導し、馬先にて城門に向かい「上様がお出でになった。御門を開け。大賀弥四郎である」と呼ばわることになっていたので、門は何の疑いもなく開かれることだろう。なので武田軍が作手に出陣し、その先手の二、三頭を岡崎に派遣してくれれば、これを家康と偽って城内に入れ、信康を討ち取り、城を占領できるだろう。家康についている家臣たちは、岡崎に妻子を置いているので、これを人質として確保したならば、ほとんどが武田に降参し、家康から離叛することは確実である。もし我らの動きに気づいて、尾張(おわり)へ落ち延びようとする女子供らは、矢作(やはぎ)川を越えていくであろうから、川端で小谷と山田に待ち伏せさせれば、一網打尽に捕縛できる。さすれば、家康につく者など一〇〇騎ばかりになってしまうだろうから、浜松城も維持できなくなり、船で伊勢(いせ)に脱出するか、吉良(きら)まで落ち延びてそこから船で尾張に逃げようとするだろう。そこを道中待ち伏せしていれば、家康を討てることは間違いない。そして、家康・信康父子の首級を念じ原(根石原)にかけてやろう。このように企んだ弥四郎らは、小谷、倉地、山田らと連判状を作成し、武田勝頼に送ったところ、勝頼は喜び、「それはもっともだ。すぐに実行せよ」と指示し、自身は作手筋に出陣してきた。
以上が、『三河物語』にある大賀(大岡)弥四郎密謀の前半である。かくて岡崎は、武田方に乗っ取られる危険が高まった。だが、家康はまだこの事実を知らなかったのである。