NHK大河ドラマ「どうする家康」の放映もあり、主人公である徳川家康とその最強の宿敵・武田勝頼が注目されるようになりました。ふたりの熾烈な対決は、実に9年にも及びました。その間に起きた合戦や事件の知られざる側面を、「どうする家康」の時代考証担当の平山優さんが解説します。
平山優さんの最新刊『徳川家康と武田勝頼』から一部を試し読みとしてお届けします。
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密謀の発覚と大岡弥四郎の最期
この事件については、いくつかの研究によって、今日では『三河物語』の曲筆(きょくひつ)などを含めて様々なことが明らかにされている。まず、同書では大賀弥四郎とあるが、彼の実名は大岡弥四郎であり、言わずと知れた大岡一族である(系譜関係は明らかでない)。これは著者の大久保忠教(ただたか)が、譜代大岡氏を慮(おもんぱか)って名字を変えたのだろう。また、弥四郎が御中間(武家奉公人)であったというのも事実と相違する。彼は、岡崎町奉行の要職にあった人物で、れっきとした武士身分である。つまり大久保忠教は、弥四郎ら身分の低い人々が起こそうとしたものと記すことで、事件の規模と広まりを矮小化しようとしたのだろう。
今日、指摘されているのは、大岡弥四郎に与(くみ)した一味は、岡崎町奉行三人のうち、自身と松平新右衛門(しんえもん)、また信康家臣小谷甚左衛門尉・倉地平左衛門尉・山田八蔵、さらに信康傅役(もりやく)兼家老石川修理亮春重(しゅりのすけはるしげ)(三河国小川〈おがわ〉城主、愛知県安城〈あんじょう〉市)とその子豊前守〈ぶぜんのかみ〉らであったことである。そればかりか、築山殿も加わっていた可能性が高い。
近世前期の記録ではあるが、『岡崎東泉記』によると、その頃甲斐より口寄せ巫女(みこ)(神を降ろし、その言葉を伝える巫女のこと、呪術者、占い師でもある)が岡崎の領内に多数入り込んできていた。この巫女たちは、勝頼の息のかかった女性たちで、築山殿の下女たちに取り入り、やがて奥上﨟(おくじょうろう)たちの心を掴むまでになったという。遂には、築山殿の御前にまで召し出されるようになると、神降ろしを行い、「五徳(ごとく)(信康の正室)と武田勝頼が手を結べば、築山殿は天下の御台所(天下人となる勝頼の妻)となるだろう。勝頼が天下を取れば、やがて信康にこれを譲ることとなろう」との口寄せをしたのだという。築山殿はこれに籠絡され、密謀の一味になったといい、ちょうどこの頃、築山殿の屋敷に出入りしていた、唐人医師西慶なる人物も加わって、計画が具体化していったと記されている。
つまり、大岡弥四郎の陰謀は、信康家臣団の中心メンバーが武田勝頼に内通し、家康・信康父子の排除を図ったクーデター計画であったが、家康正室築山殿も信康殺害計画を知らされぬまま、一味に加わったと推定されている。
彼らは、三河国足助(あすけ)もしくは作手方面から、武田軍を引き入れ、岡崎城を占領し、徳川家臣の妻子を人質にしようとした。そして弥四郎は、岡崎を制圧した武田軍とともに、浜松城の家康を討つことも考えていたのである。だがクーデター計画は失敗し、弥四郎一味のうち、生き延びたのは、武田のもとに逃亡した小谷と、家康正室築山殿だけである。後の者たちは、すべて誅殺されるか、切腹を命じられた。
ではなぜ、岡崎衆の有力メンバーは、武田と結び、家康打倒を謀ったのか。それは、当時の徳川領国の状況をみれば容易に推測できるだろう。元亀三年十月から始まった武田信玄の遠江・三河・東美濃侵攻と、天正二年(一五七四)に実施された武田勝頼の東美濃、遠江侵攻により、徳川氏は領国の三分の一ほどを一挙に失う痛手を受けていた。特に、天正二年の勝頼による東美濃攻撃により、陥落した十八の城砦のなかには、奥三河の武節(ぶせつ)城なども含まれていた。武田の勢力は、岡崎の間近に迫りつつあったのだ。もはや武田に抵抗することは不利という空気が、岡崎衆のなかには確かに醸成されていたとみられる。武田氏の攻勢が、すぐ間近に迫るなか、岡崎衆の不安と焦燥は募るばかりであり、それが信長と同盟を結び、武田氏との対決路線を取る家康と浜松衆への不満へと繋がっていたのだろう。
だが、クーデターは未然に鎮圧され、岡崎が武田の手に落ちることはなかったのである。