新型コロナウイルス感染症が5類に移行して、“日常”を取り戻したと感じている方も多いのではないでしょうか。「この3年間、なんだったんだろう」と思いつつ。
藤井清美さんの書き下ろし小説『わたしにも、スターが殺せる』は、時代の気分を大きく左右したコロナ禍の大衆心理を生々しく炙り出すサスペンスです。
2. 5次元俳優・鈴木翔馬は、ますます活躍の場を広げていた。こたつライターの真生は、翔馬のSNSをネタ元に彼の奮闘を記事にし続け、ペンネーム【M】として名を馳せている。
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2020年2月26日。新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、政府による大規模イベントの中止・延期要請が出された。翔馬が初日に向けて命を削って稽古を重ねてきた舞台もまた、初日直前でストップする。翔馬はやり切れない思いを、ツイートし始めた。そのツイートは、真生の感情を刺激する。
そんな二〇二〇年三月一日の未明、翔馬がSNSに連投を始めた。
《本当なら、今日この時間は、緊張と興奮で初日を待っていたはず。政府から大規模イベントの中止要請が出た日、俺たちは開幕に向けて劇場でリハーサル中だった。俺はやっと迷いを吹っ切れたばかりだった。演出家からも「頑張ったね。信じてたよ」って言ってもらえた。正直、帰って泣いた》
《俺だってもちろん、置いて行かれないように必死だった。でも、俺を待っててくれた演出家、アドバイスをくれた共演の先輩たち、特別に時間を取ってくれた歌唱指導の先生や他のスタッフたち、誰一人、一度だって諦めたことがない、素敵な人たちだった。尊敬できる人たちだった》
《そんな人たちが全力で創り上げた舞台が、中止なんて……正直信じられない。おかしいよ。確かに感染は怖い。早く収まって欲しい。でも、エンタメは必要じゃないかな? この、みんなが困っている時期に、観たら勇気が貰える舞台って》
《それに、公演が再開できたらいいけど、もし、そうならなかったら? 舞台ってすごい数の人間が関わるんだよ? 今回の公演で言えば、出演者は32人だけど、スタッフはもっと多くて、その上、オーケストラと劇場で働いている人もいる。その人たちの生活は? 誰か補償してくれるの?》
ツイートを追いながら、血の気が引いた。
何を言い出したんだ?
翔馬、ここはあなたの王国じゃない。世界中の人がこれを読む。いまこの時間も、明日の子どもの預け先がなくて電話をかけまくっている人や、急に仕事を失った臨時教員や、忙殺される医療従事者や、スーパーで殺気立っている人たち、「マスクの在庫は、もうありません」と一日に何十回も繰り返しては、舌打ちされ、怒鳴られるドラッグストアの店員。
誰もが目にする可能性がある。
その人たちはどう思うと思う?
そして、わたし自身が、思ったのだ。鈴木翔馬が生活の心配? どう考えたって、普通の二十一歳より稼いでいるだろう? 補償してくれるかって? わたしの仕事にだって補償も保障もない。
それにだいたい、演出家に「Great!」って言われて浮かれていたこともあったじゃないか。何十年仕事したって舞い上がる瞬間もなく人生をやり過ごしている人間がどれだけいると思う? そんな楽しい仕事をして、なに甘えたことを言ってるんだ?
存在さえ知らなかった自分の中の小箱が開き、怒りが噴き出してきた。毎日感じていた生活の不安、将来への恐怖、世の中への不満がみるみる怒りに変化して箱から飛び出していく。
鈴木翔馬をゆるせなかった。
わたしは、ペンを左に倒すと決めた。