脳出血で倒れ、失語症・右半身まひという後遺症を抱えながら、懸命なリハビリを経て、大学の学長職に復帰した出口治明さん。その支えになったのは、それまでに読んできた1万冊以上の本から得た「知の力」「教養」でした。新刊『逆境を生き抜くための教養』の一部をお届けします。
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「大きな目」で見れば世界は良くなっている
『ファクトフルネス』(ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド著/日経BP)という本が、日本を含めて世界中でベストセラーになりました。僕も大事にしている「ファクト」や「数字」に基づいて、人がつい抱きがちな世の中に対する間違った思い込みを正す本です。
そこで取り上げられている思い込みのひとつは、「世界はどんどん悪くなっている」というものです。同書の著者たちは、さまざまなデータを紹介することでこの思い込みを覆し、じつは「世界はどんどん良くなっている」ことを明らかにしています。
たとえば、世界の人口のうち、極度の貧困にある人々の割合を見てみましょう。これは過去20年のあいだに半減しました。もっと「大きな目」で見ると、1800年には1日2ドル以下で生活する人々が85%を占めていましたが、2017年には9%まで減っています。
また、同じ1800年から2017年までのあいだに、世界の平均寿命は31歳から72歳まで延びました。その間、「小さな目」で見れば、飢饉や疫病、戦争などで平均寿命が短くなった時期もあります。しかし、それは一時的な現象にすぎません。
ほかのテーマでも、そういう小さなジグザグはありながらも、大きな流れとしては「どんどん良くなっている」のが僕たちの世界です。
パンデミック、児童労働、核兵器、大気汚染、災害による死者、戦争や紛争の犠牲者、飢餓、死刑など、世界で減り続けている「悪いこと」はたくさんあります。
女性参政権、女子教育、自然保護、識字率、農作物の収穫など、世界で増え続けている「良いこと」もたくさんあります。
悪いニュースのほうが広まりやすいこともあって、つい「世の中はどんどん悪くなっている」と思い込みやすいのですが、ファクトを見れば決してそんなことはありません。
アメリカの著名な心理学者スティーブン・ピンカーも、『暴力の人類史』(青土社)という上下巻の大著で、長い人類史を通じて、戦争や犯罪などの暴力が(やはり小さなジグザグはありながらも)どんどん減っていることを明らかにしました。
ウクライナで戦争が始まる前に書かれた本ではありますが、ピンカーは現代の社会を「もっとも平和な時代」としています。
その平和をもたらした要因として、平和維持活動の展開、開放的な経済、反人道主義的なイデオロギーの衰退などと並んでピンカーが挙げているのが、「民主主義の定着と拡大」です。
それが平和に貢献しているのであれば、大きな流れとして暴力が減少し続けるこの世界で、民主主義が衰退するとは思えません。一時的な「逆境」にさらされることはあっても、長い目で見れば、必ず民主主義はいまよりも世界に広く定着するでしょう。
若者の投票率の低さをどうするか?
とはいえ、「大きな目」では民主主義の将来に対して楽観的な僕も、「小さな目」で自分の国の民主主義がどうなっているかを見ると、思わず溜め息が出てしまうというのが正直なところです。
溜め息が出るいちばんの理由は、何といっても選挙における投票率の低さです。
2021年に実施された第49回衆議院議員総選挙では、全国の投票率が56%弱でした。その時点での有権者数は、およそ1億532万人。そのうち4634万人以上が投票しなかった計算になります。
OECD(経済協力開発機構)加盟国の国政選挙投票率を見ると、日本は38カ国中32位で(2023年2月時点)、日本の投票率が先進国の中で低いことは、明白な事実です。
さらに問題なのは、若い世代ほど投票に行かないことです。
総務省が調査した2021年衆議院議員総選挙の年代別投票率を見ると、70歳代以上は62%弱、60歳代が71%強といちばん高く、以下、50歳代は63%弱、40歳代は56%弱、30歳代は47%強と、年齢が下がるほど投票率も下がっていき、20歳代では37%弱しか投票していません。
2016年から選挙権が与えられた18~19歳が43%を超えているのが救いではありますが、それでも半分以下です。
こうした有権者の投票動向を見れば、政治家が年配者を重視する政策を立ててアピールするのは、当然といえます。政治家は、まずはとにかく選挙で当選しないと仕事ができません。
しかしその結果、若い世代は「どうせ自分たちのことなんか考えてくれない」と思い込み、投票に行く気持ちになりにくい。するとますます政治家は年配者重視の政策に走る……という悪循環が起きてしまいます。
選挙で政治家を選ぶのは社会の未来につながる行動です。未来を担う若い世代が積極的に投票しなければ、民主主義が十分に機能したとはいえません。
若者たちは、まったく政治に関心がないわけではありません。投票意欲をもっと引き出すような工夫が足りないのだと思います。
いろいろなアプローチがあると思いますが、若い有権者をたくさん抱える大学が果たす役割は大きいでしょう。学生たちが「自分たちの手で未来は変えられる」と信じ、そのために積極的な行動を起こす意欲を持つことができれば、投票率も上がるはずです。
逆境を生き抜くための教養
脳出血で倒れ、失語症・右半身まひという後遺症を抱えながら、懸命なリハビリを経て、大学の学長職に復帰した出口治明さん。その支えになったのは、それまでに読んできた1万冊以上の本から得た「知の力」「教養」でした。新刊『逆境を生き抜くための教養』の一部をお届けします。