NHK大河ドラマ「どうする家康」の放映もあり、主人公である徳川家康とその最強の宿敵・武田勝頼が注目されるようになりました。ふたりの熾烈な対決は、実に9年にも及びました。しかし、その間に起きた合戦や事件には最新研究によって知られざる側面が次々と浮かび上がってきました。
平山優さんの最新刊『徳川家康と武田勝頼』から一部を試し読みとしてお届けします。
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信康事件とは何であったのか
天正七年(一五七九)、家康は、正室築山殿と嫡男信康をともに処断するという、戦国史上でも稀にみる重大な決断を下した。事件の顛末と、武田勝頼との関係について、もう一度ここで振り返りつつ、その本質を私なりに整理しておきたい。
事件の経緯を追ってみると、私は、信康と五徳夫妻の不仲をきっかけに、天正三年の大岡弥四郎事件に、実は生母築山殿が深く関与していたことを信長に知られてしまったことが、そもそもの発端と考えている。五徳が、父信長に夫信康の不満を条書でぶつけたことが、図らずも大事に至ったとみる。信長からの問い合わせに、家康や家臣たちは驚き、対応に追われることとなった。ましてや、築山殿と信康の動揺は一通りではなかったと考えられる。
この直後から、母子は、慌てて東西を問わず三河衆への多数派工作を開始し、多くの味方を募って事態の打開を果たそうとした。これは、信長や父家康から責任を追及されても、三河衆の支持があれば、事態を打開できると、信康が考えていたからではなかろうか。この動きを察知した家康は、ただちに信康と三河衆との接触を遮断し、彼を孤立化させようとしたのだろう。だが、信康はなおも工作を諦めなかったらしい。
追い詰められた信康と築山殿は、武田氏に支援を求め、クーデターを決行しようと考えていたのではないかと推測する。そのためには、家中の支持がなければならない。しかし母子による懸命の多数派工作にもかかわらず、与同者は現れず、逆に家中で孤立する結果を招いたようだ。こうした不穏な動きが、信康逆心との風説を生むこととなったのだろう。
中世は、悪事の噂が流布するだけで、領主や地域社会から罪科認定を受ける根拠となりえた時代であった(酒井紀美・一九八六年)。ましてや戦国大名当主の嫡男が、父や義父への「逆心」を企てているという雑説が流れ、それが少なくとも徳川家中に知れ渡った以上、家康は処断に踏み切らざるをえなかったと考えられる。
信長に、天正三年の大岡弥四郎事件の真相を知られてしまった築山殿と信康は、発端となった条書を信長に渡した正室五徳への怒りと憎しみを深め、ますます夫婦関係が悪化したとみられる。事情を知った家康は、夫婦仲を取り持つべく、岡崎に赴き、信康を説得した。だがそれは失敗に終わったばかりか、信康から精神的ショックを受けるほどの言説を投げつけられ、家康は体調を崩し、浜松に引き揚げざるをえなかった。
私は、家康が体調を崩すほどの衝撃を受けた信康の言説とは、信長と断交するとか、あるいは武田と手を結んででも対抗するなどの、強い意思表明だったのではないかと考えている。
もはや家康は、信康を廃嫡にするだけで済ますわけにはいかなくなった。それは正室築山殿に対しても同じだった。妻に対しては、天正三年の時の謀叛については目をつぶったが、信長に詳細を知られてしまい、またもや信康とともに怪しい動きを行った今度こそは、黙認できないと思い切ったからであろう。このように考えると、信康事件に武田勝頼が関与した可能性は皆無ではないとみられる。だが、信康と築山殿とが積極的に関与したにもかかわらず、三河衆はこれに加わることはなかった。これが天正三年の大岡弥四郎事件との最大の違いである。あの時は、武田信玄・勝頼父子の攻勢により、三河は重大な危機に陥っており、三河衆や岡崎の信康家臣らは大きく動揺し、その帰趨は不安定となっていた。だが、今回は武田と徳川は一進一退を続け、なおも先が見通せぬ状況であったとはいえ、三河において武田の脅威は減少していた。しかも、信康は自身の気性の荒さや家臣への無情な振る舞いもあり、岡崎や三河衆に距離を置かれていたことが致命的であった。いざ信康が味方を募ろうとしても、彼を支えようとする者は遂に出なかったのである。天正三年の大岡弥四郎事件では、多くの処断者を出したが、天正七年の信康事件において、築山殿・信康母子に協力して処断された人物は確認できていない。母子は、過去の罪状発覚を知り、自らを守ろうと徒(いたずら)に動き廻り、謀りごとを巡らした末、「逆心」を疑われたことから、さらに家中から孤立し、やがて自滅していったのだろう。