NHK大河ドラマ「どうする家康」の放映もあり、主人公である徳川家康とその最強の宿敵・武田勝頼が注目されるようになりました。ふたりの熾烈な対決は、実に9年にも及びました。しかし、その間に起きた合戦や事件には最新研究によって知られざる側面が次々と浮かび上がってきました。
平山優さんの最新刊『徳川家康と武田勝頼』から一部を試し読みとしてお届けします。
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信康事件の表面化
天正七年(一五七九)は、八月二十九日に家康正室築山殿(つきやまどの)が、九月十五日には嫡男信康(のぶやす)が、死に追いやられた年にあたる。この事件は、徳川氏の歴史上、最も衝撃的であるとともに、最も謎に満ちたものであるといえるだろう。なぜならば、その詳細を明確に語る同時代史料がほぼ皆無といえるからだ。
戦後の日本人の徳川家康像に多大な影響を与えた、山岡荘八『徳川家康』も、原則として『三河物語』と、幕府の編纂物である『朝野旧聞裒藁』(ちょうやきゅうぶんほうこう)などに依拠して、物語を展開しており、現代の歴史学者も同じ立場にあるといってよい。通説による信康事件の顛末(てんまつ)を紹介しよう。まずは、当事者に最も近い証言者である大久保忠教(ただたか)による『三河物語』の記述である。以下、現代語訳で掲げてみる。
丑年(うしどし)(天正五年―これは天正七年の誤記)、信康の奥方様は、信康についての中傷を十二ヶ条に書き連ね、酒井忠次に持たせて、父織田信長に送った。信長は忠次を召し寄せ、巻物を開き、一ヶ条ずつこれはどうかと尋ねた。忠次が、その都度、その通りですと申し上げた。信長は、またこれはと尋ねる。すると忠次がそれもその通りでありますと返答した。信長は、一ヶ条ずつ指さしては質問し、十ヶ条とも忠次が肯定したところで、残りの二ヶ条についてはお尋ねにはならず、徳川家中の宿老がすべてその通りというならもはや疑う余地はない。信康をとてもこのまま放置してはおけぬ。ただちに切腹させるよう家康に申せと言明した。忠次は承知して退出し、岡崎へは立ち寄らず、直接浜松に赴(おもむ)き、家康にこのことを伝えた。家康は聡明な人物であったので、これを聞くとすぐに納得され、あれこれいうこともない。信長を恨むこともない。身分の上下なく、子を可愛く思うのはみな一緒だ。それにしても、十ヶ条まで指さされ、一ヶ条ずつ質問され、もし知らぬとこちら側が申し上げたなら、信長とてこうは言うまい。すべてその通りと認めたのだから、こうなったのだろう。他に、このように言明される理由などなかろう。三郎(信康)は、忠次の中傷で腹を切らせることになっただけだ。私も大敵に直面し、背後に信長がいては、織田に叛(そむ)くこともできぬ。もう何も言うまい、と仰った。
そこに平岩親吉が進み出て、軽々に嫡男を切腹させては、きっと後悔されましょう。私が信康様の傅役(もりやく)だったのですから、万事は私の不行届であり、その理由で私を誅殺して首を信長に送り、誰か有力者に(信康赦免〈しゃめん〉の働きかけを)依頼して欲しい。信康は、家康のたった一人の子なのですから、どうか哀れに思し召して下され、と言上した。さらに親吉の首も届けられたと聞けば、信長も疑いを解くことでありましょう、と親吉は思い詰めて、一息(ひといき)に申し上げた。
すると家康は、親吉のいうことはもっともである。だがよく考えてみよ。私も国を統治する国主であり、その跡を継がせようとしている何にも代えがたい一人息子を、このような形で先立たせるのは、このうえない恥辱であり、とても残念なのだ。だが、勝頼という大敵と戦っているさなか、信長の援助なくばとても太刀打ちできない。信長を裏切っては、どうにもならないのだ。親吉の首を斬って信長に届け、それで三郎の命が助かるならば、お前の命を貰いもするが、忠次の中傷であればどうにもならない。親吉まで失っては恥の上塗りとなろう。可哀そうだが、三郎を岡崎から出せ、と家康は仰った。
そこで信康は岡崎から出されて大浜に出て、そこから堀江(ほりえ)城に移され、さらに二俣(ふたまた)城にお越しになり、天方山城守(あまがたやましろのかみ)、服部半蔵(はっとりはんぞう)に命じられ、天正六年(天正七年の誤記)、生年二十歳(実際は二十一歳)で十五日にご切腹なさったのである。
以上が、『三河物語』による信康事件の主要部分である。