無一文かつ人力のみで世界一周を目指す……こんなクレイジーな日本人、見たことない! ヒマラヤ山脈をママチャリで越え、インド最南端からエベレスト頂上まで人力のみで登頂し、手漕ぎボートでガンジス川を海まで下り、イギリスの人気オーディション番組でマジックを披露。そんな無謀で痛快な旅の模様をつづった岩崎圭一さんの紀行エッセイ、『無一文「人力」世界一周の旅』から一部をご紹介します。
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東京からヒッチハイクで沖縄まで行けてしまい、欲が出てきた
困難と思われた沖縄に渡ることができたのをきっかけに「日本国中をみてやろう」という気持ちが沸々と湧いてきた。
国外に出る前に日本国内を巡るのもいいかもしれない。沖縄県に行けたということは残りの46都道府県にも行けるはずだ。佐多岬という本土最南端の地も踏んだのだから、残りの最東西北端も回ってやろうと余分なアイデアまで出てきてしまった。
ヒッチハイクに慣れてくると、どんな場所が短時間で乗せてもらいやすいか、どのように地名を書いたらよいかなどのコツが分かってきた。
郊外の一本道で車を止めやすいスペースがあり、その一本道の先にある町の名前を書くと、だいたい間違いなかった。
食事は1食や2食は食べられないことがあったが、お菓子をもらったり、パンをもらったり、時々は「ごちそうするよ」と誘ってくれる人もいた。
寝るのは基本は野宿。駅、公園、砂浜、寮やオフィス、塾、路上と実に様々なところで寝た。車内に乗せてもらった時に不潔感を漂わせないように髭をそり、水道で体が洗えるところでは体を洗う。
最も楽しみだったのが友人、知人がいる県を訪問する時だった。
友人を訪ねると大抵、一日は快く受け入れてくれたので、洗濯を含め、衣食住でお世話になってしまった。
また友人でなくてもヒッチハイクで知り合った人が家に招いてくれることもあった。見ず知らずの人間を家に招いて、もてなしてくれる。そういう時は申し訳ない気持ちと、感謝の念が入り交じる。
日本のすべての都道府県に行けたのは、乗せてくれた人がいて、泊めてくれた人がいて、食事を恵んでくれた人がいて、数え切れないほどの親切を受けたからだ。
北海道の最北の地、宗谷岬で折り返して、再び日本を南下した。北海道では、知人の家の仕事を手伝いながら滞在させてもらい、12月の雪の中、段ボールハウスをそりで引きながら、2泊3日かけて歩いたこともあった。地元の人がくれたおにぎりや、熱いお茶が心に沁みたのを、今でもハッキリと覚えている。
2002年が明けた。東京の友人・梅山君の所に立ち寄り、再び南下を始める。目指しているのは山口の下関か福岡だ。そこから船で韓国に渡るつもりだった。
京都では梅山君の友人という、岡さんを訪ねた。
岡さんはなかなか面白い好人物で、京都の一軒家に住んでいた。一度自衛隊に入っていた彼は隊をやめ、勉強がしたくなったといって学校に通っていた。
ちょうど学校が休みの期間だったせいか、京都の色々なところに連れて行ってくれて、私も厚意に甘え、ついつい滞在が長引いた。
差し出されたチケットの行き先は韓国
そんなある日の夜、岡さんが言った。
「君の旅をもっと面白くしたい」
そして、1枚の紙を私の方に差し出した。
「何だろう?」と思いながらその横長の紙を受け取る。
「下関→釜山 3月24日」
下関発、韓国釜山行きのフェリーチケットだった。
「たしかに面白くなるとは思います」
私はそう答えながら、しばし逡巡した。嬉しいのはもちろんなのだが、本当に受け取ってしまってもよいものか葛藤があった。沖縄まで貨物船で渡れたので、韓国へもそうやって渡るつもりだったからだ。岡さんは言った。
「期日も指定だからね、行くしかないでしょう」
友人の友人とはいえ、いただいてよいものかと迷った。それと同時に、岡さんの「旅をもっと面白くしたい」との言葉が胸に刺さっていた。
同じ行為でも「同情」や「哀れみ」によるものか、「協力」「応援」の気持ちから来ているかで、まるで違う。前者は「申し訳ない」という気持ちが強くなるし、後者は「よし進もう」というやる気を起こさせてくれる。私は「協力」や「応援」に属すると解釈し、有難くいただくことにした。
新宿でホームレスを始めた時から、すでに1年が経とうとしていた。
チケットの日付に遅れないように、ヒッチハイクで下関を目指す。ヒッチハイクにはもちろん時刻表はない。期日に間に合うか心配だったが、どうにか当日無事に下関の港に到着することができた。
出港時間は午後7時で搭乗は6時20分からだった。カバンの奥底にしまってあったパスポートを引っ張り出す。搭乗口に近づくと韓国語の放送が聞こえた。
「いよいよ日本を離れるのか」
これから渡る韓国に対する不安よりも、ここまで来るのに出会った人、お世話になった人の顔が頭に浮かび、胸が熱くなった。新宿で出会った人、それからヒッチハイクで乗せてくれた人、泊めてくれた人、食事をご馳走してくれた人、本当に数多くの人に助けられて自分は今ここにいるのだ。
「必ず、生きて日本に帰ってこよう」
そう自分に言い聞かせながら、桟橋から船に乗り込んだ。
船内に入ると、耳に入ってくる言葉は日本語よりも韓国語の方が多かった。見渡したところ、乗客も韓国人が多いようで、若者よりは中年層が多い。午後10時ちょうどに何の予告もなしに船内の電灯が切れた。「もう寝ろ」という合図なのだろう。
暗がりから威勢のよい韓国語と共に、明かりがチラチラと見える。花札が白熱して、懐中電灯の明かりで続けているようだ。
「韓国ではどんなことが待ち構えているのだろうか」
船はあまり揺れなかった。いつの間にか眠りに落ちていた。
無一文「人力」世界一周の旅
無一文かつ人力のみで世界一周を目指す、まさに「クレイジージャーニー」! ヒマラヤ山脈をママチャリで越え、インド最南端からエベレスト頂上まで人力のみで登頂し、手漕ぎボートでガンジス川を海まで下り、イギリスの人気オーディション番組でマジックを披露……。そんな無謀で痛快な旅の模様をつづった岩崎圭一さんの紀行エッセイ、『無一文「人力」世界一周の旅』から一部をご紹介します。