無一文かつ人力のみで世界一周を目指す……こんなクレイジーな日本人、見たことない! ヒマラヤ山脈をママチャリで越え、インド最南端からエベレスト頂上まで人力のみで登頂し、手漕ぎボートでガンジス川を海まで下り、イギリスの人気オーディション番組でマジックを披露。そんな無謀で痛快な旅の模様をつづった岩崎圭一さんの紀行エッセイ、『無一文「人力」世界一周の旅』から一部をご紹介します。
* * *
強風と暗闇の中、エベレスト山頂を目指す
先を行くティンリーの後ろを追って足を踏み出した。
真っ暗で足元しか見えないので、距離感がつかみづらい。しばらく硬い氷の平地を進むと、固定ロープがある場所に出た。自分の安全帯とロープを繋ぐ。分厚く大きい手袋をつけているので、器具の付け替えがやりにくい。なんとか付け替えて、ティンリーの後を追う。
ティンリーが私に合わせてゆっくり足を運んでくれているのが分かる。彼は時々足を止め、私もそれに合わせる。
後ろから来た二人組が追い抜いていった。さらに進むと、その先は暗い闇になっていた。ロープは雪道を左に導いている。
そちらに進むと、尾根の細い一本道で風が吹き荒れている。一歩稜線に出ると、ゴーグルとマスクの間のわずかな肌が、風に触れる。凍りそうに冷たい。いや冷たいというより、熱湯を浴びた時のような熱い感覚だ。
これはまずい。すぐに風の当たらない場所まで引き返す。
しばらく立ち尽くしたが、心を決めて稜線に再び足を踏み出した。ロープが張られているので、恐怖はそれほどない。吹き付ける風に逆らって足を踏ん張ると、急に風向きが変わって体がよろめく。
風の中をゆっくり進むが、あまりの強風にロープを摑んだまま膝を落とし、かがみ込む。体を持っていかれそうな風だ。私はそのまま両手を拝むような格好にして雪面に伏せた。雪の冷たさがジャケットを通じて鈍く伝わってくる。
「この風がやまない限り、とても先には進めないぞ」
頭を上げて後方を見たが、誰もこの稜線に入ってきていない。
気づくと右側の空が薄い紫色に変わっていた。徐々に星が姿を消していく。そうだ、永遠にこの闇の中を進まねばならないと勘違いしていた。
夜が明ける。あたりの景色がうっすら見え始めた。自分が今いる場所が闇からあぶりだされていくように、視界が開けていく。右側は雪の急斜で左側はそのまま切れ落ちている稜線だった。
ヒマラヤ山系の雪化粧をした峰々が大地の突起物として複雑な地形を作り出している。峰々のその向こうから強烈なオレンジ色の光線が差し込んできた。
「夜明けだ」
生きてきた今日まで、毎日起こっている現象なのだが、この舞台で見るそれは、神々しく、まるでこの世のものとは思えないほど幻想的だった。
薄い紫色の空がすっきりと透明感のある碧に変わった。優しいオレンジの光の出現と同時に、暴れまくっていた風が、その凶暴さを失っていく。
あたりが「シーン」という耳鳴りが聞こえるほどの静寂に包まれた。ふとオレンジの光の主から「さぁ、おゆきなさい!」と語りかけられているような気がした。
最後の難関、垂直以上に反っている壁「ヒラリーステップ」
うつぶせていた上体を起こす。風は完全に収まっていた。
振り返ると後続者達がこちらに登ってくるのが目に入った。
「行ける! 進める!」
フワリとした雲がずっと下の方に浮かんでいるのが見える。地平線の遥かかなたに、黒い雷雲がかかっていた。その雷雲が下に向かって光の筋を走らせる。音はここまで届かない。静寂の中の稲妻は、まるで無音の映画のワンシーンのようだ。神の視点になって、下界の出来事を見ているような感覚だった。
私は雲の上にある稜線を歩いている。飛行機の窓から見える景色の中を実際に歩いているようだ。耳に入ってくるのは自分の足が雪を踏む音と、自分の呼吸音だけだ。
南峰と呼ばれる、峰のひとつに着いた。ここで下ってきた登山者と初めてすれ違う。
「ここからどれくらいか?」
マスク越しにできるだけ大きな声で尋ねた。
「1時間半くらいだ」
天候が崩れなければいけるかもしれない。風はやんだが、上空に微かにある雲は風に流されたような形状をしている。
その先にはかの有名なヒラリーステップが見えていた。
1953年、エベレストに初登頂を果たしたエドモンド・ヒラリーが最初に切り開いたとされる岩場だ。これが最後の難関である。
岩壁がオーバーハングしている。壁が垂直以上の角度に少し反っているのだ。ザイルを頼りに岩に足をかける。難所とされているだけあって無数にある中、今年のものと思われる鮮やかな色のザイルに登高器を嚙ませ、それを頼りに少しずつ体を上に持ち上げる。
ここでは足で踏ん張ることができないので、腕力だけでたぐり登っていく。ザイルが張られていなければ、登攀するのに思わぬ時間がとられただろう。
重い荷物、薄い空気、疲れきった体。残った力を振り絞って、体を引っ張り上げる。岩の隙間を縫うように進むと、緩やかな幅のある稜線が目の前に広がった。
稜線の終わりに、旗がなびいているのが見える。雪と岩と氷の世界にはおよそ似つかわしくない物だ。呼吸に苦しみながらも、旗に向かって足をゆっくり進める。
初めて「登頂できる」と確信した。ずっと夢見ていた場所だ。
足を進めながら、これまでの旅を思い出していた。今まで自転車で走ってきた道のり。今まで通ってきた国。今まで出会った人々。そして今までの自分の感情。
涙が込み上げてきた。だけどそれは飲み込んだ。泣かない。色とりどりの旗が冷たい風に音もなくはためいている。
荒い呼吸のまま、時計に目をやる。午前8時55分。
今、私は世界で一番高いところにいるのだ。視界をさえぎるものは何もない。これまで見上げていた8000m級の山々の頂すら、眼下にある。
雲に覆われた大地が湾曲している。地球の丸さが感じられる、8848mの頂だ。
この瞬間とこの景色を、私は一生忘れない。
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