NHK大河ドラマ「どうする家康」の放映もあり、主人公である徳川家康とその最強の宿敵・武田勝頼が注目されるようになりました。ふたりの熾烈な対決は、実に9年にも及びました。しかし、その間に起きた合戦や事件には最新研究によって知られざる側面が次々と浮かび上がってきました。
平山優さんの最新刊『徳川家康と武田勝頼』から一部を試し読みとしてお届けします。
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徳川軍の甲斐侵攻と武田勝頼滅亡
三月三日早朝、武田勝頼は、新府城に自ら火を放ち、東へ移動を始めた。いっぽうの織田信忠軍は、同日、諏方郡に乱入すると、諏方大社に火を放ち、諏方を制圧した。勝頼の目に、炎上する諏方大社の黒煙が望見できたはずである。勝頼一族と家臣、侍女らは、甲府を経て、その日のうちに勝沼(かつぬま)の柏尾(かしお)山大善寺(さんだいぜんじ)に到着し、ここに一泊した。
家康は、駿府で甲斐侵攻の準備を進めていた。その間、駿府および周辺の寺社、また徳川軍の通過が予想される甲斐国の駿州往還沿いの寺社からの要請に応じ、徳川軍による乱暴狼藉、略奪などを禁止する禁制を次々に発給していた。さらに、駿府商人衆の求めに応じ、彼らの特権や商業活動を保障することを約束した。もはや、駿河では戦後処理の段階に移行しつつあったのである。
三月四日、家康はこの日、初めて帰属した穴山梅雪と対面した。その場所は蒲原(かんばら)城であった可能性が高い。また富士川の対岸吉原(富士市)まで進出してきていた北条軍からも、家康の陣所に弓などが贈られてきた。
三月五日、織田信長本隊が、安土城を出陣した。信忠も甲斐侵攻の準備を、諏方で調えていた。そこで家康は、駿府の留守居に今川宗誾(そうぎん)(氏真〈うじざね〉)を、江尻城に本多重次(しげつぐ)を、それぞれ配置した。
三月六日、家康は、北条氏から贈られた江川酒を諸将に振る舞うなど、余裕がみられる。そしてこの日、織田信忠軍の先陣滝川一益、森長可らが甲府を占領した。信忠も、七日に甲府に着陣し、武田一門一条信龍屋敷に入っている。信忠は、勝頼の行方と、主君を見捨ててちりぢりになった武田一門や譜代家臣らの探索を指示した。
これで武田勝頼は、都留郡に入るしか生き残る道がなくなった。ところが、勝頼主従らは、三月四日に大善寺を出て、笹子(ささご)峠麓の駒飼宿に(こまかいじゅく)到着すると、ここに留まったままであった。小山田衆の出迎えが、なかなかやってこなかったからである。この時、小山田信茂は、勝頼主従に同行しており、信茂老母らも人質として一行のなかにいた。さすがに信茂は痺(しび)れをきらし、そしてこの日の夜半、勝頼の許しを得て、信茂老母ら人質を連れ、一足先に様子を見に笹子峠に向かっていった。勝頼は、一抹の不安を感じたが、信茂の機嫌を損ねたくないので、人質を連れて帰ることに同意せざるをえなかった。
いっぽう信忠が甲府に入ったのを待って、いよいよ家康が動き出した。家康は、徳川軍先陣に進軍を命じた。先陣は、興津(おきつ)に着陣している。またこの日信長は、岐阜城に滞在し、諸国の軍勢の到着を待っていた。
三月八日、徳川軍先陣は、万沢(まんざわ)に入り、家康は興津に進んだ。ようやく徳川軍は甲斐に侵攻したのである。信長も、岐阜を出陣した。ところがここで、勝頼が新府城を焼き、山奥に逃げ込んだらしいとの情報を受け取った。彼は、勝頼がどこかで存亡をかけた決戦を仕掛けてくると考えており、信忠では荷が重いと危ぶんでいたのである。そのため、信忠に付き従う河尻、滝川らに、むやみに前に進まず、慎重を期して信長本隊の到着を待つように繰り返し指示していた。しかし若く、血気に逸(はや)る信忠、森長可らに引きずられるように、信忠軍は武田領国の奥深くに進んでいった。信長は苛立ちと怒りを隠せなかったが、勝頼の逃亡を聞いて漸(ようや)く安心したらしく、もはや自分が出陣するまでもなくなった。これからは関東見物のために、甲斐に行こうかと意気揚々とした文面の書状を、北陸で上杉景勝(かげかつ)と対峙していた柴田勝家(かついえ)に書き送っている。
三月九日、徳川軍先陣は身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)に入り、家康は万沢に到着した。そして翌十日、先陣は穴山梅雪の案内で、市川に到着し、家康もその日のうちに着陣した。家康が本陣を構えた場所は、市川文殊堂(もんじゅどう)と伝えられる(『信長公記』『甲斐国志』他)。この市川文殊堂とは、現在の表門(うわと)神社にあたる。この時、上野城に籠城していた一条信龍・信就父子を徳川軍が攻略し、父子を市川で処刑したとの伝承がある(『甲斐国志』他)。
家康は、市川に到着すると、休息を取ることもなく、ただちに甲府に在陣する織田信忠のもとへ参上し、挨拶を行ったと『当代記』等は記録しているが、これは事実ではない。
そして三月十日、小山田信茂の出迎えを待っていた勝頼主従は、なかなかやってこない信茂の真意を怪しんでいたところ、勝頼に寵愛されていた小山田八左衛門尉(信茂の従兄弟)と一門武田信堯(勝頼の従兄弟)が使者と称して参上し、勝頼主従を安心させた。ところが、彼らはその日の夜、出迎えの催促をしに行くと言って、笹子峠に向けて去った。なかなか戻ってこないので、勝頼が様子を見に行かせたところ、笹子峠の小山田衆に鉄炮を撃ちかけられたといい、それで信茂の変心を悟ったという(『三河物語』他)。
駒飼宿は大混乱に陥り、さらに何者かが宿の建物に火をかけたため、騒動が大きくなった。小山田信茂謀叛に衝撃を受けた人々は、我先にと勝頼、同夫人、嫡男信勝(のぶかつ)を見捨てて逃げ散っていった。気づけば、勝頼側近長坂釣閑斎光堅(こうけん)、秋山摂津守昌成、秋山内記(ないき)、小山田彦三郎らは姿をくらませていた。秋山摂津守に至っては、まもなく恩賞目当てに勝頼の命をつけ狙う変節ぶりであった。
勝頼主従は進退きわまり、日川渓谷(ひかわけいこく)沿いに進路を取り、天目山栖雲寺(てんもくさんせいうんじ)を目指した。だが栖雲寺のある木賊(とくさ)の地域の人々は、勝頼主従が入ってくるのを拒んだばかりか、地下人たちを率いて、秋山摂津守、甘利左衛門尉、大熊備前守らが弓、鉄炮を撃ちかけてきたという(『三河物語』『甲乱記』)。田野(たの)に追い詰められた勝頼は、ここで滅亡することを決断した。
そして三月十一日巳刻(〈みのこく〉午前十時頃)、武田勝頼は、織田方の滝川一益勢と最後の戦いを行い、北条夫人、信勝を始め、土屋昌恒、小宮山内膳(ないぜん)、秋山紀伊守ら家臣四十余人、上臈(じょうろう)・侍女五十余人とともに、田野で滅亡した。勝頼は享年三十七、北条夫人は同十九、信勝は同十六であった。徳川家康を苦しめ続けた宿敵武田氏は、ここに滅亡したのである。
勝頼、信勝の首級は、織田信忠のもとに届けられた(『当代記』)。信忠は、当時、甲府善光寺に本陣を移していたと伝えられる(『甲斐国志』他)。家康はこの日、穴山梅雪を伴って、甲府の織田信忠本陣を訪問していた。そこへ、滝川一益が、勝頼父子らの首級を持参し凱旋してきている。家康は、勝頼の首級と対面したのであった。宿敵武田勝頼の首級をみて、彼がどのような感慨を持ったかについては、残念ながら記録がない。また、家康が信長とともに、勝頼の首級をみたという後世の軍記物の記述は事実ではない。