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徳川家康と武田勝頼

2023.07.16 公開 ポスト

本能寺の変以後、戦国最強「武田氏」の遺産が「家康」の飛躍を支えた!平山優

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放映もあり、主人公である徳川家康とその最強の宿敵・武田勝頼が注目されるようになりました。ふたりの熾烈な対決は、実に9年にも及びました。しかし、その間に起きた合戦や事件には最新研究によって知られざる側面が次々と浮かび上がってきました。

平山優さんの最新刊『徳川家康と武田勝頼』から一部を試し読みとしてお届けします。

躑躅ヶ崎館(武田神社)の石段

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武田氏滅亡と徳川家康

天正(てんしょう)十年(一五八二)三月、徳川家康は、元亀(げんき)三年(一五七二)十月より始まった武田信玄・勝頼父子との厳しい戦いを乗り越え、宿敵勝頼を滅ぼすことに成功した。武田氏滅亡は、天正十年六月二日の前と後では、家康にとっての意義は大きく異なる。本能寺の変前の状況下では、武田氏滅亡は、家康にとっての宿敵滅亡を意味したと同時に、織田信長にとって目下の同盟国徳川氏の利用価値を大きく低下させたといえる。信長が、家康を頼りにし、継続的な支援を行ったのは、武田勝頼という大国が東に控えていたからであった。その強敵が滅亡したことにより、東国・東北において織田に明確に敵対する勢力は、上杉景勝(かげかつ)を除いてほぼ存在しなくなった。伊達(だて)、蘆名(あしな)、佐竹(さたけ)を始めとする諸大名は、織田氏との友好を望んでいたし、北条氏政(ほうじょううじまさ)も息子氏直(うじなお)と織田氏との縁組みの早期実現を切望していた。北条氏には、信長と対峙する意思など微塵もみられない。

そして、旧武田領国には、信長・信忠の家臣らが配置され、東国取次役滝川一益(たきがわかずます)を通じて、まだ織田氏と通交を持たぬ大名や国衆(くにしゅう)への調略も進められようとしていた。北条領国下の国衆のなかには、北条氏から織田氏へ従属先を替えようと動く者も出たほどである。そして、越後(えちご)上杉氏は、北陸の柴田勝家(かついえ)、信濃(しなの)の森長可(もりながよし)、上野(こうずけ)の滝川一益、さらに織田氏に従属する新発田重家(しばたしげいえ)に包囲され、その命運は風前の灯となっていた。

このように、家康にとって勝頼滅亡は、自らが信長とともに戦わねばならぬ宿敵の消滅を意味した。これは同時に、信長にとって家康を重視せねばならぬ状況が消滅したことをも意味する。家康は、織田権力のもとで今後如何にして生き残りを図っていくべきかを考えねばならぬ時期にきたと思っていたのではないだろうか。

それを示唆するものとして、六月三日、三河(みかわ)の徳川家中に対し、堺より家康からの命令として伝えられた出陣準備は重要である。家康は、自分が京から帰国し次第、ただちに出陣するつもりなので、支度をしておけと命じ、その行く先を「西国へ御陣」(西国に出兵する)と述べていた(『家忠日記』)。これは、信長・信忠父子の後を追って、三河から中国地方の毛利(もうり)攻めへ、徳川軍が従軍することを意味していたのである。もし、これが実現していたら、家康は羽柴秀吉らと共同で、中国地方での長期出陣を強いられることになっていただろう。このことは、対武田戦を遥かに超える苦難を、徳川家中に強いるものとなったことは想像に難くない。だが、それは本能寺の変で雲散霧消した。

本能寺の変以後、家康にとって勝頼滅亡は、逆に大名としてさらに飛躍を遂げる好機となった。この時、家康が真っ先に行ったのは、武田信玄と勝頼の慰霊である。家康は、織田氏の焼き討ちにより全山壊滅した信玄の菩提寺恵林寺(えりんじ)の再興を命じ、それを後援した。また、勝頼滅亡の地である田野(たの)に、勝頼父子らを慰霊するための寺院建立を宣言し、実行に移した。この時建立されたのが、田野寺(現在の景徳院)である。こうした家康の政策は、各地に潜み、情勢を窺(うかが)っていた武田遺臣たちに、好感を持って迎えられた。反織田の蜂起が各地で発生し、一揆が頻発していた甲斐(かい)では、家康が甲斐に軍勢を出陣させると、すぐに平穏となり、徳川氏の麾下(きか)に従う者が徐々に増えたのである(『三河物語』)。

また家康は、武田氏滅亡の時に、武田遺臣に対し、信長とは違う対応をしていた。織田氏は、武田一門、譜代家臣はその行方を徹底して追及し、村々に懸賞金をかけて成敗する方針で臨んでいた。ところが家康は、徳川に徹底して抵抗し、仇なす動きをした天野藤秀(あまのふじひで)、武田に転じた小笠原信興(〈おがさわらのぶおき〉もと高天神〈たかてんじん〉城主小笠原氏助〈うじすけ〉のこと)、駿河(するが)の重鎮朝比奈信置(あさひなのぶおき)を除き、その多くを匿い、保護した(その後、天野と小笠原は北条氏のもとへ逃れ、朝比奈は徳川氏により殺害されている)。家康に匿われたといわれる人物は、依田信蕃(よだのぶしげ)、三枝虎吉(さいぐさとらよし)、岡部正綱(おかべまさつな)、甲斐武川(むかわ)衆折井次忠(おりいつぐただ)、米倉忠継などが史料から確認できる。この他に、信濃伊那(いな)郡吉岡(よしおか)城主下条信氏(しもじょうのぶうじ)とその子信正(のぶまさ)、頼安(よりやす)も、三河設楽(したら)郡に逃れ潜伏している。これも、家康の承認によるものだろう。かつて家康は、天正伊賀(いが)の乱に敗れ、三河に逃れてきた伊賀衆を匿ったことがあった。このことから伊賀衆は、本能寺の変後の伊賀越えに際し、その恩に報いるために働き、家康の三河帰国を大いに助けている(平山・二〇一一年)。

同じように、武田氏滅亡の災厄と織田の凶刃から逃れようとしていた人々を助けたことにより、家康はその後の運を開くこととなった。

関連書籍

平山優『徳川家康と武田勝頼』

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」時代考証者による徹底解説! 家康の生涯における最強の宿敵・武田勝頼。ふたりの熾烈な対決は、実に9年にも及んだ。その間の幾多の合戦や陰謀、家族・家臣たちとの軋轢から起きた事件には、最新研究によって知られざる側面が次々と明らかになってきた。長篠合戦の勝敗を分けた「意外な要因」とは? 家康の正室・築山殿と嫡男・信康の「死の真相」とは? 勝頼を滅亡に追い込んだ家康の「深慮遠謀な戦略」とは? 本書では武田氏研究の第一人者が、家康と戦国最強軍団との死闘の真実に迫る!

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平山優

一九六四年、東京都生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編さん室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹、山梨県立中央高等学校教諭を経て、健康科学大学特任教授。二〇一六年放送のNHK大河ドラマ「真田丸」、二〇二三年放送のNHK大河ドラマ「どうする家康」の時代考証を担当。著書に、『武田氏滅亡』『戦国大名と国衆』『徳川家康と武田信玄』(いずれも角川選書)『戦国の忍び』(角川新書)、『天正壬午の乱 増補改訂版』(戎光祥出版)『武田三代』(PHP新書)、『新説 家康と三方原合戦』(NHK出版新書)などがある。

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