“プレミア本”電子化プロジェクト第6回は、『神聖喜劇』の第六巻。巻末に収録されている二松学舎大学教員(日本近代文学)の山口直孝さんの解題を公開します。
「分身」を志向する倫理 山口直孝(二松学舎大学教員(日本近代文学))
初読の時から気に入っている箇所がある。東堂太郎たち教育召集兵は、入隊一ヵ月後、初めて兵営の外に出る。大船越で短い休憩を与えられた東堂は、生源寺・橋本・鉢田らと農家の縁側で寛ぎ、さらにお茶と餡餅とのもてなしを受ける幸運に恵まれる。そこでの一節。
茶飲みの茶碗五個のおのおのにたっぷり注がれた番茶が、静かに湯気を立てている。それは、とても私にありがたかった。しかし私は、次ぎに主婦が持ち出した別の盆一枚の上を見て、思わず息を呑み、さらに思わず生唾を呑み込んだ。餅の出来立て(それも餡入り)と私に一目で見て取られた十数個――いや、三個ずつ五列の合計十五個――が、盆の上にならんでいた。私は、「喉から手が出る」ような気がした。『ここが大事な所だぞ。』と私は、心を引き締めて考えた。(「第五部 雑草の章/第一 大船越往反/(2)」)
この部分は、何度読んでも笑ってしまう。厳密な記述が心がけられた『神聖喜劇』では( )が毎ページといってよいほど多用されているが、それにしても「餅の出来立て(それも餡入り)」は念入りの表現であり、東堂の心のはやりが伝わってくる。続く「ここが大事な所だぞ」という自戒が、また楽しい。餡餅に身構える主人公は珍しい。
漫画版では、お盆に載せられた餡餅のクローズアップとそれに視線を吸い寄せられる四人とが一ページに一杯に描かれている。餡餅は、「三個ずつ五列」に並んではいないものの、いかにもうまそうで、東堂が「息を呑」むのも当然と感じさせる。
この後、突然現れた吉原が一人で五個を平らげるという不作法を行い、東堂たちは憤る。しかし、話は、食べ物の恨みは恐ろしい、という展開にはならない。と言って、怒りは、軍隊の食生活の貧しさの告発に結びつくわけでもない。帰途、東堂は、旧正月の準備で餅搗きが行われていることを事前に知っていたら、決して農家に立ち寄らなかったであろうと振り返る。この思考は、禁欲主義ではない。克己的な東堂の言動は、しばしば誤解されるが、窮屈な人間が「(それも餡入り)」と心を躍らすことはありえない。餡餅やお茶のうまさを認めつつ、饗応をあてこむふるまいを慎むべきことが、ここでは説かれている。東堂が追求していることは、単純に言えば、倫理である。おいしいものを素直に味わうためには、他人に甘えない心構えが必要とされる。けれども、それを人に伝え、同意を得るのはそれほど簡単ではなさそうである。橋本たちと並び歩きながら、東堂は、黙って考え続けている。日本の近代小説は、このような場面を、そしてそこで深く思いをめぐらす主人公を、決して取り扱おうとはしなかった。
『神聖喜劇』は、数多い登場人物がいずれも存在感を持つ。大前田軍曹、神山上等兵、村上少尉、堀江中尉、片桐伍長など、東堂の前に立ちはだかる面々は、いずれも典型の域に達している。もちろん、橋本、鉢田、曾根田、生源寺ら新兵たちも同様であり、兵営が様々な階級や職業の人間が集う社会の縮図であることを実感させる。だが、個性的な顔ぶれの中に一人、焦点をなかなか結ばない人物がいることにも読者は気づかざるをえない。それは、冬木照美――対馬に向かう船上で東堂が出会い、その「双顔の青い輝き」(「第一部 絶海の章/序曲 到着」)を記憶に留めた若者――である。被差別部落出身者であり、傷害致死罪に問われた彼は、時に勇ましく、また時に沈欝であり、場面ごとに相当に異なった印象を残す。主人公に重なる部分を持つ不定型の人物があえて設定されているのは、注目に値する。日本の近代小説は、このような他者にも決して取り扱おうとはしなかった。
東堂は、軍隊法規を精査し、合法闘争を試みる。非凡な記憶力を駆使し、上官の恣意的解釈や誤解を正していく過程は、痛快である。その東堂と同調するように、橋本と鉢田とが大前田の独演や村上の訓話に含まれる欺瞞を射抜く発言を行うのも、名場面と言える。漫画では、被差別部落出身であることを隠さない橋本にたじろぐ大前田が大写しの顔の描き込みで、「皇国の戦争目的は、殺して分捕ることである」という答えに落胆する村上が影絵で処理されていて、それぞれ印象的である。対決の緊張感が物語の一つの柱となっていることは間違いなく、そのようなドラマの面白さは、ページを丸ごと使うコマ割などオーソドックスな手法によって、十分にすくい取られている。
けれども、異議申し立てをする東堂の姿に感情移入するだけでは、『神聖喜劇』の魅力を尽くしていることにはならないであろう。東堂が単独者であることに満足せず、同じように感じ、考える仲間を作る意志を手放さないことに、『神聖喜劇』の面目はある。その意志は、もう一人(以上)の自分、すなわち「分身」を作り出そうとする願望とも言い換えられる。冬木が配置されているのは、分身に関する物語の意志ゆえにほかならない。日本の小説家たちは、自身の等身大の主人公が他の登場人物に似ていることを基本的に嫌った。高等教育を受けた少数者が描いた「私」は、個性的であることに自足し、外部に踏み出る衝動を持っていない。それに対して、東堂が語る「私」は、俗情を拒絶しつつ、連帯の可能性を探り続ける。『神聖喜劇』が一人称小説としてはおそらく日本最長の、怪物的作品となった根源的理由は、「分身」の志向に求められるべきであろう。東堂の倫理観は、難解ではないものの、伝えやすくもない。説明をする余裕がない時、彼は無理に主張をしない。餡餅をめぐる思考は、その例である(ほかに職業技術を無料で利用することへの懸念など)。とはいえ、東堂は必要な場合に言葉を惜しむ人間ではない。
『神聖喜劇』には、特異日とでも呼ぶべき節目がいくつか存在する。例えば一月十九日、二月三日、三月十八日がそれに該当し、順に、東堂らの朝の呼集時限への遅れ、大根の菜=軍事機密問答、模擬死刑騒動が起こっている。『神聖喜劇』を代表するエピソードに彩られたこれらの日は、詳述されるにふさわしい。だが、表面的には目立ったできごとがないにもかかわらず、さらに深い関心を注がれている日として二月二十二日があることは見逃せない。剣鞘すり替えが発覚したこの日の記述は、『神聖喜劇』で最も長い。穏やかならぬ雰囲気の中、東堂たちは、不透明な事態を見定めていこうという議論を積み重ねていく。作品は、彼らの意見交換の様子を人の出入りを含めて執拗に追う。異変の正体や冬木への嫌疑が持ち寄られた情報によって次第に浮かび上がっていくが、ここでの主眼は何かを解明することには置かれていない。東堂が目指したのは、速断を回避することであった。限られた情報や噂による決めつけの危険を防ぐ、意士的な判断停止こそを、彼は求めようとした。生源寺と連携しながら、東堂は周囲を辛抱強く説得する。二月二十二日に発せられた言葉の圧倒的な堆積は、倫理の実現に莫大な熱量が必要であることを指し示す。おそらく普通の漫画は、絵を圧迫するほどの科白を引き受けようとはしないであろう。しかし、漫画版『神聖喜劇』は、定番からの逸脱を厭わず、飛躍のない言葉の連なりをそっくり取り込む道を選んだ。それゆえに作品は後半において、できごとと議論とが拮抗する、別の感情をも帯び始める。
偏見や予断を斥けることを共通理解としようとする東堂の努力は、二月二十二日以降も兵営の片隅で、あるいは八紘山の中腹で、続けられる。その目的は、被疑者としての冬木を扱う不当性を批判することのみに絞られている。複数の状況証拠によって吉原が真犯人として浮上しても、東堂は彼を疑うことを自らに禁ずる。
動かぬ証拠または確実な証人なしに、誰かを犯人呼ばわりにしたり犯人と決め込んだりするわけには行かない。もしおれたちがそんなことをしたら、そのおれたちは、冬木にたいする班長班附たちとおなじ類になってしまうのだよ。
(「第八部永劫の章/第一模擬死刑の午後/四の5/Ⅷ」)
漫画版ではこの科白が、話し相手の東堂の姿を省略して描かれている(第六巻74ページ参照)。それは、この言葉がすでに東堂だけの所有物でなくなっていることを表していよう。地道な東堂の働きかけによって、諦念に憑かれていたかのような冬木の心が解けていく。むろん、そのような過程なくして、模擬死刑における東堂・冬木の「止めて下さい」という声の重なり、「〇〇二等兵もおなじであります」という名告りの交響はありえなかったに違いない。もう一人の、あるいは多くの東堂の「分身」の誕生を告げる、この場面はやはり感動的である。そのクライマックスを漫画版は、繰り返された対話の延長線上に置き、慎ましやかに表現する。声に焦点化した描法やミドルショットで兵士たちを描く選択は、メロドラマと一線を画しており、その抑制が好ましい。「分身」を志向する倫理の地道な運動をたどっていく漫画版は、まぎれもなくもう一つの『神聖喜劇』である。
犯罪事件をめぐる最近の報道は、扇情的になる一方である。警察当局の正式発表すら待たずにさまざまな情報が飛び交い、大衆は無責任な想像を消費する。被疑者は即犯人と見なされ、法定以上の処罰の要求が湧き起こる。液状化した匿名者たちが監視社会の鬱屈を晴らすかのように、いたぶる相手を探し求めている様は、戦時下の兵営で公正であろうと努めた新兵たちの姿と対極的である。そのような現代人は、おそらく普通に餡餅を楽しむ健全さからも遠ざかっていよう。今という時代の不幸を映し出す鏡として、また、日本社会の病理に対する分厚い処方箋として、『神聖喜劇』はある。この大長編は、今日いよいよ味読されなければならない。
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