俳人・堀本裕樹さん、初めてのエッセイ集『海辺の俳人』が発売になりました。
和歌山の大自然に囲まれて育った俳人は、上京してから海にあこがれ続け、25年目にして、湘南の片隅の町にある「スーパーオーシャンビュー」の一軒家に移り住みます。結婚、愛娘の誕生、コロナ禍の自粛生活と、形を変えながらも穏やかに続いていく日々を綴ったエッセイより、試し読みをお届けします。
憧れのまご茶
「えいやっ!」
八月も終わりに近づいた海の光が差し込む朝の洗面所で、日めくりカレンダーを引っぺがすときのMさんの掛け声が響いた直後、
「キャーアアアッーー!」
という悲鳴が聞こえたので、「おい、どうしたどうした!」と、まだ寝ぼけていた僕の頭は急に覚めて、慌てて駆け付けていった。
切迫早産の疑いで入院していたMさんは無事に退院して、お腹の子も順調に育っている。それだけに彼女の行動や様子にはちょっと神経質になってしまう。いま転んだりしたら、たいへんだからだ。
「どうした?」
「小っちゃいムカデが落ちてきたの」
「お、それは退治しないとダメだね」
百足虫の肢数へたることなかりけり 亀田虎童子
ムカデは「百足」「百足虫」「蜈蚣」と漢字で書いたりするが、この句のように実際数えたことのある人は、おそらく昆虫学者くらいだろうし、ほんとうに百の足があるのかどうかはわからない。一般的に「百」「千」「万」などの数字は、「数の多いこと」を意味するので、「百足」もきっとアバウトなネーミングなのだろう。そんな事情を逆手に取ったようなこの句は、どこかユーモラスである。
僕はティッシュペーパーを右手に持って、日めくりカレンダーの下の床に這う子どものムカデを見つけ出した。発見されたムカデは、体を小刻みにくねらせて逃げようとする。
Mさんは少し離れたところで、怯えた眼でじっと見つめながら、
「どこから入ってくるんだろうね……ムカデが入ってくるエリアがあるのかな」
と、心配そうな声でつぶやいた。
「たぶん入ってくるとすると、洗濯機の排水口あたりかなと思うんだけど」
僕はそう言って、ムカデにティッシュペーパーを被せると、スリッパを履いた足でそいつを踏みつぶした。つい先日も大きなムカデが出て騒ぎになったのだが、そいつは箒で塵取りに掃き入れると窓を開け、庭の先の藪に生きたまま放り投げて殺さなかった。
この小さなムカデは踏みつぶしてゴミ箱に捨てたのに、なぜあの大きなムカデは殺さずに窓から放って逃がしたのか。僕には自分のその瞬間に働いた精神の動きを正確に分析することはできない。小さいから足で踏みつぶした、大きいから足で踏みつぶすのは危険と判断し生け捕りにした、そんな単純な心理ではないようにも思う。人間というのはつくづく傲慢で恐ろしい生き物であり、一瞬の判断のうえのもろもろの行動が、見えない複雑な精神の作用を経て行われるのだろう。
ひげを剃り百足虫を殺し外出す 西東三鬼
この句を見ると、百足虫を殺すことはなんでもない日常の一部として扱われている。そこがちょっと恐ろしい。人を刺すか噛むかして害をなす節足動物とはいえ、「殺し」を一つやっておいて、平気で外出する人間の酷薄さを感じさせる一句である。
僕もムカデを殺したあと、洗顔をして朝食を食べ、歯を磨いてから洗濯物を干すという何のわだかまりもない日常を送った。まあ、みんなそんなものだよ、ムカデ一匹、ゴキブリ一匹殺して胸を痛め、罪の意識をいちいち感じていたら生きていけないよ、と言われてしまえばそうかもしれないが、そんなことに立ち止まって考えてしまうのも理不尽な部分を持つ人間の複雑さであろう。
あれだけの悲鳴を上げたMさんも、もうムカデのことなんかすっかり忘れたように、だいぶ大きくなった自分のお腹を撫でながら、窓外の海を見つめている。「さあ、きょうの昼は、まご茶だよ!」
いきなりMさんが元気よくそう宣言した。
「よし。じゃあ、市場に行こう!」
切り替えの早い僕らの頭は、すでにまご茶のことでいっぱいになった。
「まご茶漬け」とも言われるまご茶とは、飲むお茶のことではない。伊豆地方などで食べられるアジの刺身をご飯にのせて、出し汁を注いでお茶漬けのようにしていただく料理のことである。いただくと書くと、上品そうに聞こえるが、もともと漁師が漁の最中に船のうえでさっと手際よく作って豪快に食べるようなものらしい。そうして「まご茶」の由来は、「まごまごしないで早く飯を食え」ということらしく、漁師めしとして納得のいくネーミングである。
そもそもなぜ、まご茶を食べようという流れになったのかというと、Mさんの友人が伊豆に旅行に出かけたらしく、ラインで美味しそうなまご茶の写真が送られてきたのが、きっかけであった。その写真を見てから、
「美味しそう。食べたいなあ。ねぇ、伊豆に行こうよ」
と、Mさんが言い出したのだった。
僕は妊娠中のMさんを、この新型コロナウイルスが幅を利かせている世界に連れ出して旅行するのは、やっぱり警戒する気持ちがあった。だから、「まご茶だったら家でもできるよ」と提案したのだった。 市場というのは近所にある魚市場のことで、朝獲れの新鮮な魚がずらりと並ぶ。アジならこの湘南で獲れたものでも充分に美味しいし、何より新鮮である。
帽子を被った僕とMさんは、汗を掻きかき残暑が猛烈に厳しいなかを、ゆっくり歩いて市場に着くと、湘南で今朝獲れたばかりのアジをさばいてもらって購入し帰ってきた。
妊婦は通常よりも平熱が高くなるようで、Mさんは吹きこぼれるように汗を掻いている。二人ともしっかり水分を摂ってから、シャワーを浴びると、しばらく冷房の利いた部屋で休んだ。
「二匹買ったから、一匹は漬けにして、残りはそのまま刺身で食べようか」
Mさんの提案に深く頷いた僕は、フォークナーの『八月の光』に挟んである栞を取って読みはじめた。コロナが席巻する世の中になって、自粛生活を送り出してから、いわゆる名作と呼ばれる書物を中心に読むようになった。長編である『八月の光』もいつか挑戦してみたかった小説で、八月に入ってから読もうと決めていた。『八月の光』を八月に読む、我ながら単純すぎる理由の読書である。
そのあいだ、Mさんはせっせとまご茶の準備をしてくれた。やがて、
「できたよ~。いつでも食べられるよ」
という合図で、僕はランチョンマットをテーブルに敷き、箸や皿を揃えていく。
食事の準備が整うと、早速Mさんは熱々のご飯に、薬味のネギとミョウガをたっぷり加えた醤油漬けのアジをのせて海苔をまぶした上から、これまた熱々のカツオと昆布の一番ダシをじんわりとかけていった。みるみるアジの表面の色が白く変わっていく。
「いただきます!」
Mさんは「いざ!」という感じで、憧れのまご茶をすすった。
「どう?」
Mさんは、眼をつぶりながら大きく頷くと、
「う~ん。これ、これ、これっ!」
満足しきった唸り声で、湘南のまご茶を腹の底から絶賛した。
僕もMさんの至福の表情を見ていたら、もう居ても立っても居られなくなって同じようにして、まご茶を大きく掻きこんだ。
「うまい……。これはうまい!」
その後は僕もMさんも、シンプルだけども確かな力強い味に「うんうん」頷きながら、まご茶をすっかりたいらげてしまうと、満腹の腹を撫でさすったのだった。
これがムカデを殺してから、わずか二時間ばかり後の二人の人間の姿である。
鰺殺し喰ふや殺しし百足虫捨て 裕樹