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ゴッホとゴーギャン。生前顧みられることのなかった孤高の画家たちの、伝説のヴェールを剥がす本作。
『楽園のカンヴァス』ではルソー、『ジヴェルニーの⾷卓』ではモネ、『暗幕のゲルニカ』ではピカソを…⻄洋の巨匠たちを⾃由かつ⼤胆に描いてきた原⽥マハの、豊富な美術史への知識と画家への愛が溢れる世界観をお楽しみください。
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0 プロローグ いちまいの絵
その絵は、確かに花を描いた絵だった。それでいて、描かれているのは花ではなかった。
ひまわりの絵である。高遠冴の自室に、それは長らく飾られていた。
いったい、いつから飾られていたのだろう。物心がついたときには、すでにひまわりの絵は部屋の中にあった。ベッドの正面の壁に掛かっていて、横たわるとたちまちその絵は冴の視界の主人公になるのだった。
少女の冴は、毎晩、絵の中のひまわりをみつめながらうとうとして、眠りに落ちた。目が覚めて、真っ先にみつけるのもひまわりだった。黄色い背景、黄色いテーブル、黄色い壺。その中で、てんで勝手に好きなほうへ顔を向けている黄色い花々。まどろみの中で黄金色に輝く花々をみつめていると、話しかけてくるような、笑いかけてくるような気がした。
いつしか冴の目に、絵の中のひまわりは人格をもった花として──つまり花のような人として映っていた。その絵の作者がフィンセント・ファン・ゴッホという画家だとようやく知ったのは、中学生になってからのことだ。
中学二年生の初夏、修学旅行先の沖縄からすっかり日灼けして帰ってきた冴は、自室の壁からひまわりの絵が消えているのに気がついた。その代わりに、別の複製画が掛かっていた。
褐色の肌をしたふたりの少女が砂浜に座っている。ひとりはピンク色の長袖のワンピースに身を包み、黒髪に赤い花を飾って、おぼつかないまなざしをしている。もうひとりは白いノースリーブのブラウスに赤い布を腰に巻き、黒髪を束ね、耳の上に白い花を挿して、背中をこちらに向けている。話をするでもなく、笑い合うでもなく、それでもふたりのあいだには清涼な空気が流れ、豊かな時間が少女たちを包み込んでいる。あたりに響き渡るのは、ただ波音ばかりだ。
冴はしばらく黙ってその絵をみつめていたが、台所で夕飯の支度をしている母のもとへ行くと、「あの絵どうしたの?」と訊いた。母は振り向いてにこっとすると、「気がついた?なかなかいいでしょ?」と訊き返した。
「違うよ。ひまわり、ゴッホの絵。どこやっちゃったの?」
冴が訊き直すと、母は、「ああ、そっちの絵のことね」と笑って、
「あの〈ひまわり〉はね、冴の誕生月の花だから、冴が生まれたとき、お祝い代わりにおばあちゃんに買ってもらったのよ。それっきり十三年間、あそこに飾りっぱなしだったでしょ。昨日、お母さん、お友だちと展覧会に行ったんだけど、ミュージアムショップであの複製画、みつけて。あらゴーギャンだ、今度は冴の部屋にこれ飾ってあげようって、急に思いついちゃって」
〈ひまわり〉がなぜ自分の部屋の壁にずっと掛かっていたのか、そのとき冴は初めて知った。同時に、「ゴーギャン」という画家の名前も初めて耳にした。
アートが好きで美術館に行くのを何より楽しみにしていた母は、ゴッホとゴーギャンにまつわるエピソードを聞かせてくれた。
ゴッホはオランダ人、ゴーギャンはフランス人。ふたりとも、十九世紀末のパリで、それまでになかった個性的な絵を描こうと意欲を燃やしたポスト印象派の画家だ。けれど、ふたりの絵は先を行き過ぎていて世の中が追いつかなかった。ゴッホは、画商をしていた弟のテオに支えられながらも心身を病み、ピストル自殺してしまう。ゴーギャンは、いっときゴッホと南仏・アルルで共同制作を試みたが、意見の食い違いから訣別し、最後は遠く離れた南洋の島・タヒチへたったひとりで赴き、孤独な生涯を閉じる。母はふたりの画家の複雑な関係と時代背景を、十三歳の娘にもわかるように嚙み砕いて教えてくれた。
「どうしてゴッホとゴーギャンはけんかしちゃったの?」
冴の質問に、母は、うーん、と首を傾げて、
「ゴッホのほうが一生懸命過ぎて、ゴーギャンはちょっと引いてたんじゃないかな?有名な話なんだけど、ゴーギャンが出ていくのをなんとかくい止めようとして、ゴッホは自分の耳を切り落としたんだって」
冴は、ええっ、と声を上げた。ぞくりと背筋に寒気が走った。「やだあ怖い、寝られなくなっちゃうよ」と冴が身を縮めると、ごめんごめん、と母は苦笑した。
「でもねえ。そこまで一生懸命になれる何かがあるって、なんかすごいことよね。ゴッホは結局自殺するほど思い詰めちゃったんだろうけど……ゴーギャンだって、ゴッホが死んだあと、ひとりぼっちでずっと遠くの南の島まで行っちゃうなんて……」
結局、ふたりのあいだに何があったのかはわからないけど、ふたりには、絵を描くことへの情熱みたいなものがあったんじゃないのかな。──と、母は語った。
「でも、絵を見るってそういうことかもね。目には見えない、画家が絵筆に込めた情熱……みたいなものを、絵を通して受け取る、っていうか。お母さんは、絵を見ていると、いつもそういうの、感じるのよね。冴も、画家から何か受け取るつもりで、絵に向き合ってみたらいいよ。あれは複製画だけど……いつか一緒に、パリに本物見にいこうね」
母は美術の専門家などではなく、ただ単にアートが好きなだけだったが、その講釈は冴の胸に不思議なくらいよく響いたのだった。
その夜、冴は日灼けした体にパステルピンクのパジャマを着て、ゴーギャンの少女たちの前に横たわった。その絵のとなりには、元通り、ゴッホの〈ひまわり〉も掛けられていた。
いつの日か、会いにいこう。
パリへ。──ゴッホとゴーギャンに会いに。きっと……。
眠りに落ちるまえのほんの一瞬、冴のまぶたの裏に見知らぬ少女の姿が浮かんだ。
つややかな黒髪に飾った白い花冠。日に灼けた肌を白いパレオに包み、はにかんだように微笑んでいた。
幸せそうなタヒチの少女。未来で冴を待っている、いちまいの絵──。
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リボルバー
パリのオークション会社に勤務する高遠冴の元にある日、錆びついた一丁のリボルバーが持ち込まれた。それはフィンセント・ファン・ゴッホの自殺に使われたものだという。だが持ち主は得体の知れない女性。なぜ彼女の元に? リボルバーの真贋は? 調べを進めるうち、冴はゴッホとゴーギャンの知られざる真実に迫っていく。
ゴッホとゴーギャン。生前顧みられることのなかった孤高の画家たちの、伝説のヴェールを剥がす本作。⻄洋の巨匠たちを⾃由かつ⼤胆に描いてきた原⽥マハの、豊富な美術史への知識と画家への愛が溢れる世界観をお楽しみください。
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