現役の大学病院教授が書いた、教授選奮闘物語『白い巨塔が真っ黒だった件』。”ほぼほぼ実話”のリアリティに、興奮の声が多数。
第1章につづき、第2章「サイエンスの落とし穴」を6回に分けて公開します。
* * *
ある日、実験台で試薬を調整していたぼくは、谷口から「ちょっと」と声をかけられ顔を上げた。そこにはいつになく険しい表情の谷口が立っていた。谷口の表情が、これから話す内容の重大さを物語っていた。
「大塚くんの研究内容と似たような論文が出てしまった」
「え、ほんとですか?」思わぬ出来事に、ぼくは素っ頓狂な声を出した。
谷口は軽く手招きをして自分のデスクに戻ると、「ほら」と言ってモニターに映し出されている論文を指差した。
そこには、ぼくが行っていた研究内容とまさに同じ趣旨の論文が掲載されていた。
「まずいですね」そうとしか言えなかった。
──先を越された。
研究ではしばしばあることだが、まさか自分の身に起きるとは思わなかった。どんなに素晴らしい内容の研究でも、二番目となれば価値はぐっと下がる。最悪の場合、これまでのデータがお蔵入りになることだってある。「ぼくらの研究、論文になりますかね」 ぼくは心配になって谷口に尋ねた。
「まだざっとしか読んでないけど、着眼点は同じでも、細かなメカニズムは違っている。そういう点で論文になると思う。ただ、いくつか追加実験をしなくてはいけない」
最悪の事態を免れることはできそうだ。しかし、ぼくはポジティブな気持ちに切り替あえることがでなかった。世界で初めて証明したはずの輝かしい研究が急速に色褪せ、みるみるうちにありふれた論文へ変わっていくのを呆然と見ることしかできなかった。
「世の中には同じことを考えている人が三人はいる。だからこの分野はスピードも大事なんだ」
谷口にしては珍しく怒っている様子だった。それはぼくに対する怒りというより、自分自身に対する怒りだと思った。一番を取られたこと、競争で負けたこと、競合相手の動きに気がつかず自分たちの論文を投稿できなかったこと。全てに腹を立てている様子だった。 それから深いため息をついて、勝負に勝った相手の研究業績を調べ始めた。研究論文検索サイトPubMedで責任著者らの名前を入れ、「あー、ここは昔から肥満細胞をやっているグループだ」とつぶやいた。
気を取り直してぼくは聞いた。
「どこの研究室ですか?」
「ドイツのK大学」
聞き覚えのある大学名だった。思い出した瞬間に、全身の血の気が引いた。それはまさにエジンバラの国際学会で「Congratulations」と言って声をかけてきたグループだった。
ぼくは震える声を抑え、
「エジンバラの国際学会で質問してきたグループです。ネタをパクられたかもしれません」と絞り出した。
谷口は返事をしなかった。そして、そのままモニターに映し出された競合相手の論文を、隅から隅まで食い入るように読み始めた。 しばらくの間、ぼくは谷口の横でただ立ち尽くしていた。とんでもないことが起きている。海外の競合するグループに自分たちの研究アイディアを盗まれた。それも、自分が事細かく競合相手に説明したから起きた事件だ。なんてことをしてしまったのだろう。
呆然とするぼくに、谷口は声をかけた。
「大塚くん、パクリではないよ」
そう言って、耳が腫れたネズミの写真の下にある文章を指差した。
「彼らはぼくらと違う遺伝子改変マウスを使っている。このネズミを作製してデータを出すまでには二年かかるだろう。大塚くんの発表を聞いてからでは間に合わない」
「でも、質問してきたドイツ人は、ぼくらのマウスについて事細かに聞いてきました」
「それは、ぼくらの研究の進み具合を知りたかったのだろう。たぶん、彼らも遺伝子改変マウスを使って同じテーマの研究を進めていた。それが、全く違うマウスを使って、自分たちと同じ現象を発見した若手の日本人が現れたから、びっくりしたに違いない。こちらの進捗とデータの内容、論文の発表時期までを確認した上で、競争に勝とうとしたんだ」
「それってフェアじゃないような気がします」 ぼくは少しムキになって言った。
「そうだね、フェアではない。でもルールを破っているわけでもない。ぼくらが彼らの研究より早く論文を仕上げていれば、なにも問題はなかっただけだ」
「とても残念です。良いデータだったのに。彼らが出した論文と同じなら、世の中の役に立たないですね」
ぼくは自分が発した言葉のとげとげしさに自分で慌てた。
(つづく)
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白い巨塔が真っ黒だった件
実績よりも派閥が重要? SNSをやる医師は嫌われる?
教授選に参戦して初めて知った、大学病院のカオスな裏側。
悪意の炎の中で確かに感じる、顔の見えない古参の教授陣の思惑。
最先端であるべき場所で繰り返される、時代遅れの計謀、嫉妬、脚の引っ張り合い……。
「医局というチームで大きな仕事がしたい。そして患者さんに希望を」――その一心で、教授になろうと決めた皮膚科医が、“白い巨塔”の悪意に翻弄されながらも、純粋な医療への情熱を捨てず、教授選に立ち向かう!
ーー現役大学病院教授が、医局の裏側を赤裸々に書いた、“ほぼほぼ実話!? ”の教授選奮闘物語。
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