世界がウクライナ戦争で大きく揺らぎ始めています。再び戦争の時代に戻りそうな端境期にある今だからこそ、歴史から多くを学ぶべきだと著者は主張します。保阪正康さんの最新刊『戦争の近現代史』から一部を試し読みとしてお届けします。
近代史七十七年、現代史七十七年
日本の近現代史を考える上で、近代史は明治元年(慶応四、一八六八)から昭和二十年(一九四五)八月まで、現代史は昭和二十年九月からウクライナ侵攻の始まった令和四年まで、と私は理解しています。
西暦にするとわかりやすいのですが、近代史は一八六八年から一九四五年までの七十七年間、現代史は一九四五年から二〇二二年までの七十七年間です。
二〇二二年まで、「現代史の七十七年間をつないでいくと、どういう未来になるのだろうか」と思っていました。ところが今は、「国際社会における現代史が終わり、次の歴史が始まるのではないか」と考えるようになりました。つまり、人類史が新しい時代に入るという予感がしているのです。ロシアのウクライナ侵攻は、まさしく「新しい時代」への変化をもたらすものです。
これまでは核抑止力で、世界平和は維持できると言われてきました。しかし、核大国であるロシアのプーチン大統領は、ウクライナ侵攻の過程で「核の脅威」をちらつかせ、同じく核大国アメリカのバイデン大統領が「核兵器を使うことは許されない」と牽制する状況が続いています。プーチンが核兵器を使用することはないと私は見ていますが、もし使ったならば、「核抑止力」という言葉は死語になり、「核抑止力で平和を維持する」という戦争論に代わる、新しい戦争論なり抑止論が出てこなければならなくなります。
奇(く)しくも、それが日本の現代史で七十七年目の二〇二二年に生じました。まさに人類の歴史は大きな変化の時を迎えていると言っても過言ではありません。二十一世紀は、これから先七十年以上ありますが、二十二世紀までの間に、これまでとは違う形の世界に変わっていくという予兆を、私は強く感じます。
もちろん、「軍事を一切考えなくてよい」という平和主義の立場を否定するつもりはありません。
「攻められたら、武力行使を放棄し、参ったと言って戦わない。その結果、国民を一人も死なせずに済む。私たちの国の国家的な利益は損なわれるだろうし、侵略してくる傍若無人な国の実験材料にされることもあるだろう。それでもかまわない。平和憲法の精神を守るということは、そういうことなのだ」
賛成、反対は別にして、憲法を擁護する人たちのこのような意見も耳にします。それはそれで筋が通っています。あえて言えば、「奴隷の平和」を甘受すべきということになります。ですが、すべての日本人がその意見に納得するわけではない、ということもまた現実です。歴史の検証は、あくまで現実に起こっている状況と向き合いながら進めていくべきものです。
以上のような考え方を前提に、日本の近現代史を振り返りながら、私たちが手にするべき「戦争学」を考える「よすが」を、本書では探していきたいと思います。