世界がウクライナ戦争で大きく揺らぎ始めています。再び戦争の時代に戻りそうな端境期にある今だからこそ、歴史から多くを学ぶべきだと著者は主張します。保阪正康さんの最新刊『戦争の近現代史』から一部を試し読みとしてお届けします。
「この国を守る」という戦争ではなかった
「兵隊たちの涙」は何を表しているのか。日本の戦争は「軍事指導者たちの戦争」であって、「兵隊たちの戦争」ではなかったということです。「兵隊たちの戦争ではなかった」とは、「この国を守る戦争ではなかった」ということです。
一例を挙げると、広島に原爆が落ちた次の日、他の都市から送られてきた兵士たちが市内を歩き回って、生存者を探し出して病院に運び、死体の処理をしました。
それに従事した兵士たちの書き残したものを見ると、第一に助ける者は軍人の将官、それから佐官、官公庁の役人と続き、最後の方に普通の市民、その後が兵隊と書いてありました。高級軍人、役人を優先し、その後で普通の市民を助けるという指示が、日本軍では何の疑問もなく出されていたのです。これだけを見ても、軍事指導者たちは、何のために戦争をしたのか、「自身の栄達のため、利益のため」ではないのかと考えざるを得ません。
近代日本は、軍事行動によって国外に様々な権益を獲得しました。それを獲得することに貢献した軍人たちには、名誉、あるいはそれなりの社会的地位を与えられました。とくに軍人たちは「公・侯・伯・子・男」の爵位をもらうことが、最大の願望だったのです。
軍人の生態に関心を持って調べた時期があり、昭和天皇の側近であり、太平洋戦争時に一貫して内大臣だった木戸幸一に取材の申し込みをしたことがあります。体調が悪いので、ある作家に質問項目を託してほしいと木戸から申し出があり、それで回答をもらうという形での取材でしたが、「軍事指導者は何を考えていたか」という質問に対する木戸の回答は、「彼らは華族になりたかったのだ」というものでした。華族になって、日本の歴史に名前が残るような存在になりたかったのです。
明治時代から日本の軍人たちは、内心では爵位が欲しくて仕方がなかったのです。実際に、明治の軍人はかなりの人たちが爵位をもらっています。だいたい明治政府の軍事政策を支えた人物たちですが、木戸幸一は明治の軍人と昭和の軍人の大きな違いについて、次のような意味の指摘もしていました。
「昭和は、士族の出身ではない人が軍の指導者になった。彼らは士族出身でないことに屈辱感、劣等感があった。それを打ち消すために爵位が必要だった」
爵位をもらうという形での立身出世をめざす軍人のあり方が、軍事の暴走につながった面があるかもしれません。軍事指導者たちが、自分の栄達、名誉を最優先に考えていたことを裏付ける内容は、無数にあります。
たとえば、太平洋戦争の三年八カ月のうちの二年七カ月にわたり指導者だった東條英機は、何を本当の目標としていたのでしょうか。彼もまた、爵位をもらって、華族になりたかったのです。もちろん、そんなことは表向きには口にしません。しかし、秘書たちとの私的な会話で、「この戦争に勝ったら、公爵あるいは侯爵といったところまで、もらえるのではないか」というようなことを話していたとの証言もあります。
芥川龍之介は「軍人というのは勲章が好きでしょうがない。勲章以外、彼らの仕事を評価する物がないからだ。しかし、その勲章のために、どれだけの兵隊が死んでいるか。それを考えろ」という意味のことを洩らしていますが、「一将功なりて万骨枯る」という世界が、どうしても軍人には付きまとうのです。軍事が栄達と関わり合うゆえに、「戦争に勝つこと」そのものが目的になりました。「戦争をしない」という軍事のあり方を模索する軍人は評価されません。
「戦争をしない」ということを一生懸命研究し、国民の命を守ることに専念する軍事学を提唱した人、あるいはそういうことを実行した人が爵位をもらうのではなく、戦争を選択し、何万人もの犠牲を出して勝った人が爵位をもらうのです。
軍人たちが爵位を欲しがる背景に、そういう皮肉で残酷な現実があることを、私たちは知っておくべきです。