社員の7割が知的障がい者の“日本でいちばん大切にしたい会社”を舞台に、働く喜びを描いた感動のノンフィクション『虹色のチョーク』(小松成美著、幻冬舎文庫)。道枝駿佑さん(なにわ男子)の主演で、2023年8月26日(土)夜9時頃から「24時間テレビ46」スペシャルドラマ(日本テレビ系)にて放送です。働くとは? 生きるとは? 今日一日、そして未来への希望を紡ぐ感動の記録。
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経営危機のなかで覚えた焦りと葛藤
いくつもの課題をクリアしなければならない変革期。隆久さんは、本業であるチョーク製造に舵を切り直すことが急務だと考えていた。
「入社当時は商品企画部に配属され、同時に経理や総務を担当するという立場でした。ところが、いろいろと状況がわかってきて、これは本当に営業を頑張らないと駄目だと思い、『営業をやらせてくれ』と申し出たのです。それからずっと営業部の一員として全国を駆け回りました」
どうすればチョークは売れるのか。隆久さんは考え続けた。
「実際にチョークの需要は下り坂だったわけですから、そのなかでいかにシェアを上げるのか、思案し続けました」
チョークには、学校というフィールドがある。市場が決まっていて、一見非常に安定している印象があるが、じつは安泰とはほど遠かった。
「自分で経理や総務をやっていると、決算の状況がわかるわけです。総利益が莫大に出るような会社でもないし、どういうところに、どういう費用がかかっているかも理解しました。チョークのマーケットが、どんどん小さくなっていくのもわかります」
焦りを滲ませる息子に、当時社長だった泰弘さんは泰然とした態度を崩さなかった。
「父は私に『チョークは大丈夫だから』と言う。どこからそういう自信が出てくるのだろうという思いが常にありました。何の根拠があって大丈夫だと言うのか。理解できず、『どうしよう、どうしよう』と思い、一人で空回りしていました」
実際、チョークは販売がゼロになることはない。数が減っても学校がある限り、時期が来ると注文が来て売れていく。
「極端な話、営業をしなくても注文はゼロにはならず、そこそこは売れていくということも、なんとなくわかっていきました。だからこそ、頑張ればもっと売れるはずだと思ったのです」
営業への意欲は危機感の裏返しだった。
「ホワイトボードが爆発的に出てきた時代でしたから、大げさではなく存亡の危機の前触れだと認知していました」
隆久さんは、いくつかのポイントを挙げ、ノートに記した。
- より良い品質のチョークを作る
- 生産性を上げる
- 生産ラインの近代化
- 営業によるシェアの拡大
- 新製品の製造・販売
この項目を繰り返し見てはプランを練り、経営戦略を考えていると、日本理化学工業が社会的使命として取り組んできた「重度知的障がい者の雇用」が障壁になると思えてならなかった。
「健常者であったほうが、いろいろな意味で生産性も高められます。製造ラインをコンピューターで管理する。そうした改善も必要に思えましたし、営業や商品開発の人材ももっと必要だと考えました。なので、会議の度に『健常者を雇用し、事業計画を練り直したい』と言ったのです」
会社を安定させ成長させるためには、健常者を積極的に雇用すべきだと意気込んだ隆久さん。けれど、それは父である泰弘さんが作り上げた日本理化学工業の社風とは相反するものだ。
継続して知的障がい者を雇用し、定年まで永年勤務する環境と仕組みを作り上げた父と、自身がやりたいことを置いてアメリカから帰国し、危機感を募らせていく息子。
言い争いになることはなかったが、意見は平行線を辿った。
隆久さんは、父に直接思いを説明することもあった。
「たとえば、チョーク製造の現場にしても、知的障がいのある社員たちだけではなくて、もう少し健常者が入って円滑に回していったほうがいいのではないか、そこでもっといろいろな発展を考えたほうがいいのではないか、と告げました。障がい者を雇用することは否定しない。しかし、このままの形で何の手も打たずに続けていくことは絶対に違うなと思っていたのです。会社は慈善団体ではないという意識を持っていたし、『企業ならこうあるべきだ』という理想もあった。会社の方針転換を強く迫っていた時期もありました」
そんな隆久さんに、社長である父は、静かに向き合った。
「私を頭ごなしに否定することもしなかったのですが、賛成すると言ったことは一度もありません。繰り返し、『チョークは大丈夫だ』と言い続けるのです。外に出て営業をしていても、日本理化学工業のシェアが爆発的に伸びることなんてあり得ない。どこが大丈夫なんだと、憤りは常にありました」
アメリカから帰国し、必死で会社の安定経営を訴える隆久さんは、なぜ誰も自分の意見に賛同しないのかと考えていた。
姉の真里さんは従業員とともに、黙々と膨大なハンガーのリサイクルの作業に取り組んでいた。
開発部門の責任者である叔父の大山章さんは、隆久さんに一言「この会社が大事にしてきたものがあるんだよ」と告げ、肩を叩いた。
製造部長としてチョーク製造ラインの管理を担当する鈴木順雄さんは、理想を掲げる隆久さんを否定せず、「そういう考えを持つのはいいことです。それを検討して、皆で『じゃあ、どうしようか』と決めていける。それが将来的に夢や目標に繋がりますね」と、肯定してくれた。
会社のために働くすべての者が、今ある流れを変えようとはしていない。苛立ちとなぜなんだという疑問が、胸の中で合わさり、渦巻いていた。
働く日々のなかで芽生えた感謝と感動
なぜ皆自分の意見に賛成し、行動を起こさないのか。このままでは会社は弱体化し、消滅してしまうかもしれないのに。
会社への思いを理解されない悔しさに身を固くしていた隆久さんは、ほどなく、その考えを反転させる。頑なだった心に風穴が開き、障がい者雇用という伝統を蔑ろにすれば会社存在の意味もない、と思うまでになっていった。
彼は変わったのだ。
「会社が取り組んできたこと、その歩みを、私はすっかり見落としていた。それが日本理化学工業にとってどれほど大切なことか、気付いていなかったのです」
父も叔父も姉も長らく働く社員も、変えようとしなかった流れ。それは、職場にある働く喜びの存在だった。工場で働く社員から与えられる喜びは、いきり立った隆久さんの心をも柔軟にした。
「私は、何もわかっていませんでした。幼い頃から障がい者の近くにいたのに、会社と社員が作ってきた日本理化学工業の歴史と伝統、そして彼らがそこにいる理由を、まったく見ようともしなかった。単純に、他の会社を評価の基準にして、『うちはこういうところが劣っている』とか、『21世紀の企業はこうあらねばならない』などと、数字上の理想ばかり追いかけていたのです」
経営や利潤だけを追求すれば、何が正しくて何が間違っているか、常に選択を迫られていく。そして、経営者が正しい選択をしなければ、企業は負けていく。
しかし、日本理化学工業は、資本主義のなかで会社を経営しながらも、他社にはない哲学を貫いていた。
「うちの会社は、働くことを諦めなければならなかった人たちにその機会を提供し、働くことが楽しく嬉しい、と真の喜びを知ってもらえる仕事を続けてきた。素直に、これ以上尊いことがあるのだろうか、と思えていったのです」
会社のためには利益を追求しなくてはと思う焦り。その一方で、利潤追求とは相反する障がい者雇用という会社の取り組みへの誇り。
業績を伸ばしてさらに成長するために変化を求める気持ちと、積み重ねてきた障がい者雇用の意味に気付きはじめた隆久さんが、心に折り合いをつけ、会社の方針を100%継続すると決めたきっかけは何であり、いつだったのだろう。
「明確な瞬間というのはありません。けれど、1年もすると心が整い、父が作った大河のような流れが、どれほど大切でありがたいものなのか、わかっていったのです。たとえば、社員旅行に一緒に行ったり、ハンガーリサイクルの仕事やチョークの製造ラインを手伝ったり、そういう機会に一人一人の社員と接していくと、どんなときにも一生懸命な姿に涙が流れたのです。経営者と社員という立場だけでなく、同じ会社の仲間であると強く感じられました」
隆久さんは、それぞれの社員を知的障がい者とひとくくりにしていた自分を省みた。
「障がいのある社員と深く話すことは簡単ではありません。しかし、社員から『この人はこういう人ですよ』と性格や仕事ぶりを聞くと、名前と顔と個性がわかっていきます。実際、職場で挨拶を交わし、ときには会話をしてみると、一人一人が懸命に今を生きていることがわかり、我が社の大切な労働力、職場になくてはならないパーソナリティーなんだ、と感謝が生まれます。そういう場面が少しずつ増えていって、私ははっきり気付いたのだと思います。私の使命は社員から働く喜びを決して奪わないことなのだ、と」
経営者として先頭に立ち、彼の思う改革に躍起だった隆久さんは、現場で社員たちと同じ時間を過ごすことで、小さな感動を積み重ねることになった。
「現場に立っていると『この人はこういうところがすごいな』とか、『俺はこんな作業は絶対にできないな』とか、職人としての彼らに心を鷲摑みにされましたよ。さらに、『この人がここまでになるには、どれほどの努力が必要だったのだろう』とか、『俺がこんな技術を持ったら、もっと尊大に振る舞うだろうし、給料が欲しいと言うだろうな』などと考えて、ただ黙々と仕事に没頭する皆に、感謝の念が溢れるようになりました」
人格や性格、プロフェッショナリズム、仕事への姿勢、真面目さ、無心さ、笑顔など、そういった個々の持つパーソナリティーに触れていった隆久さんは、彼らを理解するだけでなく、彼らと働けることこそ、自分の喜びだと考えるようになっていた。
「誰かから何かを言われて、自分の考え方が変わったのではありません。知的障がい者と呼ばれる人たちと一緒に働いていくなかで、『すごいな、かなわないな』と素直に感動し、尊敬したからです」
会社にとって大切な人たちを路頭に迷わせたくない。素晴らしい職人の技術を失いたくない。そんな考えが体に満ちていった。
「ハンガーの仕事がだんだん減っていくという状況もあり、本業で頑張らなければ未来はないと思いました。チョークの製造ラインで働く社員の手を空かしてはならない、と自分に言い聞かせました」
「チョークは大丈夫」と言った父。その言葉はすなわち、日本に子どもがいて学校がある限り、注文はなくならないという意味だ。だが、それだけではないと、隆久さんは思った。
「学校で授業を受ける子どもたちに、うちの社員の作るチョークを使ってもらう。そのための力を尽くすのが私の役目です。販路を広げ、受注を増やし、そのうえで『うちのチョークは大丈夫』と、胸を張って言えることが経営者の務めなのだと考えていました」
隆久さんは、その思いのまま道を進んだ。どんなときにも、製造ラインで働く社員の一人一人の顔を思い浮かべ、以後二度と「障がい者雇用を見直し、健常者を増やす」とは言っていない。
「これまで作り上げたものを失えば、日本理化学工業が日本理化学工業ではなくなってしまうからです。社員の7割が知的障がい者。彼らがチョークを作り、働く喜びを持てる会社、それが日本理化学工業です。理解していなかったとはいえ、私はそれを一時、壊そうとしました。本当に浅はかだったと思います」
隆久さんの視線の先には、姉の真里さんがいる。
「自然体で知的障がい者とともに過ごし、会社の経営に寄与した姉は、私の心の支えでもありました」
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この続きは『虹色のチョーク』(小松成美著、幻冬舎文庫)でお楽しみください。