時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。
* * *
序
抜けるような青空に、白い雲がいくつもぽつぽつと浮いている。後ろの席の清子ちゃんが、ふわふわの綿菓子のようで美味しそうだと言っていたのを思い出して、ぷっと噴き出してしまう。お弁当を食べたばかりだったのに、頷いてしまったわたしも十分に食いしん坊だった。
良妻賢母を育てるこの橘樹高等女学校に入って三度目の春は、とても退屈でぬるま湯の中に浸かっているみたいだった。
進学してよかったところは、このセーラー服くらいしかないかもしれない。
女学生ならば袴にブーツも素敵だけれど、この大きな襟とリボンが可愛らしくて、わたしのお気に入りだ。ごくたまにほかの女学校の生徒とすれ違うと、たいてい、羨望の目で見られる。
制服以外は、学校生活は窮屈そのもの。
校則が厳しくてお友達同士で活動写真に行くこともできないし、カフェーに立ち寄るなんてもってのほか。おまけに女学校は町外れにあり、電車もバスも一時間に一本しかない。
徒歩で通える生徒は少なく、放課後になると潮が引くように生徒たちがいなくなってしまう。
帰れば縫い物やら何やらを手伝わなくてはならないので、こうしていつも学校でぐずぐずしていた。
誰もいない学舎は、時間ごと凍りついたみたいだ。
わたしが世界を独り占めしているようで、どきどきしてしまう。
以前、それを同級生に言ったら「寧子さん、いいところのお嬢さんなのに変わってるわね」と返されたので、誰にも言わないことにしている。そもそも、家柄とわたしの性格には何の関係もないのに、あの子の主張のほうが風変わりだった。
図書室で借りた本を返してから、昇降口へ行く。
進級のお祝いに新調してもらったぴかぴかの革靴と、アイロンをかけたばかりの紺色のスカート。
下足箱で履き替えてくるりと一回転すると、想像どおりにスカートのひだが広がって綺麗な
円を描いた。
もう一回。
結局、くるくると三度回転したところで、わたしは誰かが校庭に向かうのに気づいた。
わたし以外にも、学校に居残り中の変わり者がいるのは意外だった。
どうせなら変わり者になり切ってみようと、わたしはその影を追いかけた。
とはいえ、すぐに相手が生徒でないのはわかった。洋装でズボンを身につけているのは担任の先生だと思うけれど、校庭の植え込みに用事があるなんて、いったい何かしら?
そろそろとくぬぎの木の下に近づくと、そこにはやっぱり先生が立っていた。
弓削朋久先生。
わたしたちの担任で、数学の教師でもある。出身は神奈川県で、奈良には詳しくないらしい。遠足のときも、若草山の頂上から見える煉瓦造りの監獄を知らなかったくらいだ。髪の毛をさっぱりと切り揃え、眼鏡をかけているせいでとても真面目に見える。
「先生」
彼は動かなかった。
「何をしているんですか?」
わたしが思い切って尋ねてみても、弓削先生の返事はなかった。
聞こえなかったのかなと、わたしはもう一度「弓削先生」と呼んでみた。
「聞こえてますよ」
いつもと同じ、不思議と冷えた口調だった。
橘樹高等女学校はキリスト教系の私立校で、このあたりでも名の知れた家の子ばかりが集まっている。進歩的な教育を謳うたっているけれど、師範学校や実科高校のように手に職をつけたい生徒はいなくて、ほとんどの生徒は卒業したらお嫁に行くのが決まっている。
わたしがここに進学したのは、お父様が熱心なクリスチャンだからだ。
今年の春にやって来た弓削先生は、教師の中でも最年少だった。京都帝大卒の立派な肩書きはさておき、女学校に若い男性教師なんてと、着任するときは反対の意見もあったらしい。
なのに、去年代替わりした理事長はここをただの花嫁学校にしたくないそうで、優秀な先生は学校全体の刺激になるからと、周囲の反対を押し切ったのだとか。
──僕は数学を教えます。わからないことがあったら、質問してください。
端整な細面の弓削先生がそう言った瞬間、数学なんて興味がないはずの同級生でさえもざわめいた。
はしたないけれど、わたしも心臓を高鳴らせた一人だった。
けれども、年上の男性に憧れるわたしたちの気持ちとは裏腹に、弓削先生は素っ気なくて、まさに数学にしか興味がないようだった。
朝は出欠を取る以外は連絡事項の伝達のみで、日常会話はいっさいない。おかげで、先生が休日に何をしているかは不明だった。
質問だって、先生が答えてくれるのは数学についてだけだった。個人的な質問は、まったく取り合ってくれない。猫と犬のどちらが好きかというふざけた問いかけにも、興味なさそうにため息をついて終わった。
わたしには、そういう素っ気なさが新鮮だった。
「先生、木に何かいるんですか?」
弓削先生を見るたびに、わたしは半跏思惟像を思い出してしまう。
膝の上に片足を乗せて考え込む、独特の仏像だ。
先生はこの世界ではないところに思いを馳せているようで、わたしはいつも、先生が何を目にしているのか気になってしまうのだった。
「いえ、何でもありません。小笠原さんも早く帰りなさい」
「えっ!? わたしの名前、知ってたんですか?」
特に目立つわけでもないし、成績だって普通で、質問一つした経験がないわたしのことを?
振り返った弓削先生は、何を馬鹿なとでも言いたげな顔になった。
「これでも、担任ですよ」
「すみません……」
ふと、ぴいぴいというさえずりが耳に飛び込んできて、わたしは思わず頭上を見上げる。
枝と枝の陰になってわからなかったけれど、小鳥の巣があるみたいだ。
確か、校庭の隅にある倉庫の前に、用務員が雑用に使う木箱が置いてある。あれに乗れば、木の上も見えるかもしれない。
「何の鳥ですか?」
「さあ」
それでも少しだけ、先生のまなざしが和らいだ気がする。先生のそんな顔を見るのは初めてで、なぜだか心臓が痛くなってきた。
「痛い……」
「え?」
振り返った先生の視線に、今度は何も言えなくなる。わたしは「ご機嫌よう」とだけ言って、校門に向かって走りだした。
どうしてだか、胸が痛い。こんなのは、初めてだ。わたしは病気なのかしら?
校門をくぐろうとして、わたしはふと足を止める。そこには、蒼白い顔をした同級生が佇んでいたからだ。
「谷本さん?」
「あら、小笠原さん。お久しぶりね」
月曜日からずっと休んでいた級友は、にこりと無理やりに笑った。
「もうお元気になったの?」
「わたくし、今日で学校をやめることになったの。それで、ご挨拶に」
「今日!? どうなさったの?」
「結婚が早まるのよ」
谷本さんが目を伏せたので、長い睫まつ毛げ の影が彼女の白い頬の上に落ちた。
「それは……おめでとうございます」
残念だわと言いかけて、わたしは慌てて言い換えた。
谷本さんは成績優秀で、クラスでも常に一番か二番を守っている。そんな彼女でさえも、途中で勉学を諦めなくてはいけないのだ。
「小笠原さんも、婚約なさっているのよね?」
「ええ」
「……」
彼女は一瞬、何かを呑み込んだように見えた。
「皆さんによろしく。ご機嫌よう」
「ご機嫌よう」
級友が結婚を理由に学校をやめるのは、そこまで珍しい話ではない。
わたしも婚約者がいて、卒業したらすぐに結婚する予定だった。一度だけ会った年上の大学生で、建築家を目指して勉学に励んでいる。
来年には家庭に入り、わたしは夫のために美味しい料理を作る。お母様のように真面目に品行方正に暮らし、スカートをくるりと回すこともないだろう。
それはおそらく幸せだけれど、今よりもずっと退屈に違いなかった。
奈良監獄から脱獄せよ
8月23日刊行の、和泉桂さん初めての一般文芸作品『奈良監獄から脱獄せよ』の試し読みをお届けします。
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