時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。
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* * *
一
僕は数字が好きだ。
数学が好きだ、と言い換えてもいい。当然、一番好きな科目は数学だ。
大学でも数学を専攻したが、そこで僕は初めて、自分はただの数学好きであって突出した才能があるわけではないのだと自覚した。
本物の天才や秀才に揉まれて、ようやく、努力では埋まらない差と自分の能力の限界を理解したのだ。
数学者になれるような煌めく才能には恵まれていないことを認識し、恩師のつてで数学教師の職を得た。教師は雑務が多いが、日々数学に触れられるので苦にならなかった。
何もない週末、僕は住まいのある奈良から京都へ向かった。書店をはしごして最後に三条通麩屋町の『丸善』を訪れた僕は、時間をかけて二冊の洋書の数学の本を吟味した。京都の丸善は、僕の暮らす奈良の書店とは品揃えがまったく違う。語学はそこまで得意でなかったものの、数式ならば意味がわかる。これで二か月は楽しめるだろう。
さすがにここは京都でも指折りの大きな書店だけあり、ひっきりなしに客が出入りしている。ステッキを突いた紳士、古ぼけた学帽を被った大学生、舶来の絵本を選ぶ親子連れ。
ガラス越しにちらりと外を見たところ、もう薄暗い。念のため時計に視線をやると、そろそろ帰らなくてはならない時間だった。
「大福? おまえ、えっと、弓削じゃないか!」
声をかけてきたのは、大学生のときに同じ寮で過ごした大野──だと思う。昔と変わらない書生スタイルのおかげで、何となく思い出した。モダンさの欠かけら片もない服装は、いかにも彼らしい。
何よりも、僕をその妙なあだ名で呼ぶのは彼くらいしかいなかった。
「大野?」
「おう、そうだ。久しぶりだな。まだこっちに住んでたのか」
ひょろっと背が高い彼は、生活費のほとんどを本につぎ込んでいるのではないかというほどの読書家だった。大学の後半に彼を寮で見かけなくなったのは、肺病で休学したからだと聞いた。
「それはこっちの台詞だ。元気になったんだな」
「おかげさまで。やっと四年生になれたよ。おまえは? とっくに卒業したよな?」
「今はしがない数学教師だ」
「そっか、おまえ、教えるの上手かったもんなあ。試験前なんて、かなり世話になったっけ」
「お互い様だよ」
大学の寮ではいろいろな学科の学生が一緒だったので、試験前になると得意な分野を教え合う勉強会を開いた記憶があった。
それに、昔から人に何かを教えるのは嫌いじゃなかった。尋常小学校では同級生の勉強を、いつも見てやっていた。家では歳の離れた妹に無理やり九九を教え込もうとしたが、なかなか覚えてくれなかった。癇癪を起こしたら泣かれてしまって、ずいぶん困ったっけ。
「で、どこの先生なんだ?」
勤め先である私立の女学校の名前を言うと、大野は目を見開いた。
「そいつは羨ましい。大福帳にかじりついてたくせに、大出世じゃないか」
「羨ましいって、何で?」
大福帳とは、また懐かしい。
古道具屋で安売りされていた大福帳を買ってきて、毎晩、寝しなに読んでいるのを大野に見つかったのだ。僕が色白なことも手伝い、大野は僕に『大福』と命名した。彼は気の利いたあだ名だと思ったようだが、実際にそう呼んだのは彼だけだった。
「だって、可愛い女学生に囲まれてるんだろ?」
「嫁入り前の大切な娘さんだ。何かあればくびだよ。個人的な関わりを持たないように気をつけてるくらいだ」
父親である前理事長の急死で学校経営を引き継いだ若い理事長はやる気に溢れており、女学校をただの花嫁学校にする気は毛頭ないようだった。そのおかげで、僕のようなつぶしの利かない人間も働き口を得られたのだ。
けれども、理事長の思惑がどんなものであれ、内実はお嬢様ばかりが集まった女学校だ。
生徒たちとは一線を引かなくては、痛くもない腹を探られかねない。
最初は珍しがられたものの、幸い、数学はほかの学科に比べて難しい。お堅く振る舞っていれば、少女たちは近寄りづらく感じるようで、今やすっかり遠巻きにされている。
僕に学科以外のことで話しかける生徒は、一人だけだ。その彼女が昨日は手紙を持ってきて、僕は咄嗟にそれを拒んでしまった。よく考えてみれば彼女には婚約者がいるのだし、大胆な真似はしないだろう。反射的に拒絶したことを悪いと思う程度に、その一件は僕の中で引っかかっていた。
これからも教師でいるためには、申し訳ないが、彼女ともきっちり線を引かなくては。
「そりゃそうか。数学に興味ない子も多いだろうしな」
「うん。僕なんて置物みたいなものだ。いてもいなくても変わらない」
「置物ってのはいいたとえだが、おまえは巻き込まれやすいから気をつけろよ」
「巻き込まれる?」
意味がわからずに、僕は思わず聞き返す。
「人とは一線を引いてるくせに、いざとなると面倒見ちゃうだろ。それで厄介ごとにずぶずぶ足を踏み入れるからなあ……まあ、教師には向いてると思うけど」
「迷惑をかけられたってこと? 記憶にないけどな」
そもそも他人との感情の交錯は、僕にとっては一番の苦手科目だ。
もちろん、今のような日常的な会話は問題ない。だが、表面上のつき合いはできても、腹を割って他人と関わるのは不得手だった。
だからこそ、特に覚えがない。
何も思い出せないと僕が首を傾かしげると、呆れたように「そういうところなんだよなあ」と大野は声を上げた。
「何のこと?」
「城山だよ! 法科で一年下の!」
「……ああ」
言われてみれば、学生時代はそんなできごともあった。
寮で一緒だった後輩の城山になぜか絡まれるようになり、挙げ句の果てに斬りつけられてしまったのだ。傷は深くなかったし、もう薄くなっていたのですっかり忘れていた。
城山は、二言目には弓削先輩は陰気だ、鬱陶しい、真面目すぎるなどと僕を馬鹿にしていた。
そのくせ、夜になると部屋に押しかけてきて、ぽつぽつと悩みを口にするような男だった。僕は相槌すら打たなかったが、彼はそれでもよかったらしい。
ある晩、いつものように彼の将来の悩みを聞いているうちに、どうしてだか「あんたは誰のことも真剣に考えてない」などと激しく詰られた。僕が呆気に取られて黙り込んだのに腹を立てたのか、彼は短刀を持ち出してきたのだ。
護身用の短刀なんてものを今時持っているのも意外だったし、刃傷沙汰の当事者になるなんて完全に想定外だった。
何とか廊下まで逃げおおせたが、それまでだった。
今なお、僕の左腕には、引き攣つったような瘢痕がある。痛みはなく、時折痒くなる程度だ。
何が城山を怒らせたのかは、未だにわからない。おそらく僕が悪いのだろうと思ったので、大ごとにするつもりはなかったものの、寮の廊下でのできごとを穏便に済ませるのは無理だった。結果、郷里からやって来た親族に連れられ、城山は大学をやめて療養生活に入った。
「おまえは人の話をちゃんと聞きすぎるんだよ。だから、妙な期待をさせちまう」
「そうでもないよ。ただ、周りの人たちの話が興味深いから、何となく聞いているだけだ」
「そこなんだよなあ」
人間のタイプをいくつかに分けられるなら、城山は火の回りが早い気質だろう。普段はあっさりしていたが、いつ火が点くか不明なのは少し怖い。
僕にとって、彼は他山の石にほかならなかった。
「城山といえば、あいつの隣の部屋だった法科の滝って覚えてる?」
「うん。秀才だったな」
「あいつ、春から控訴院に勤めてるんだけど、こっちが実家だからたまに会うんだよ。何でも派閥争いが大変でさ、こないだなんかげっそり痩せちまってたぜ。病気にならなきゃいいけど」
控訴院は地方裁判所の上級機関で、主要都市数カ所に設置されている。
地方裁判所での判決結果に不服があれば、被告人も検察官も控訴する権利がある。受理されると控訴院で裁判が行われ、控訴院での審判に不満があれば、更に控訴できる。そして最終的に、最高の司法裁判所である大審院にて法廷が開かれる。つまり、被告人も検察官も罪が決定されるまで、それを覆す機会が二回あるわけだ。
真面目で人のいい滝は、派閥争いなんてものは一番苦手だろう。僕も同じなので、そこまで厳しくない今の職は楽でよかった。
奈良監獄から脱獄せよ
8月23日刊行の、和泉桂さん初めての一般文芸作品『奈良監獄から脱獄せよ』の試し読みをお届けします。
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