時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。
(1話目から読む方はこちらから)
* * *
そこで僕は、ちらりと時計に視線を落とす。もうそろそろ立ち去りたいという合図だった。
「あ、ごめん。帰るところだよな」
「うん」
「奈良だと、関西本線だっけ。気をつけて帰れよ」
「ありがとう」
「元気でな」
ぽん、と肩を叩かれる。そんな気安い仕種をされるのは久しぶりで、僕はたじろいだ。
ともあれ、これから奈良の片田舎に戻らなくてはいけない。帝都と比べれば、京都も奈良も大差ない田舎に見えるかもしれない。だが、人力車やタクシーがずらりと待ち受ける京都は、やはり日本を代表する古都だと納得がいく。奈良なんて、電車の本数も乗降者数も少ないから、駅前なんて閑散としたものだ。
僕はやって来た電車に乗り込むと、空いている席に腰を下ろす。鞄からさっき買ったばかりの新しい数学書を取り出して、早速ページを捲めくった。
インクの匂いが心地よい。
「……」
僕の向かいの席に座っていたのは幼い子供で、飽きた素振りで母親の膝に上体を預けている。
あのくらいの歳の頃には、僕は既に数字に夢中だった。
僕の実家は丹沢湖にほど近い小さな村にあり、一族は代々庄屋を務めていた。その流れから、ご一新のあとは村長に選ばれる家系だった。つまりは、村の名士という位置づけだ。それなりの田畑を所有し、敷地にはいくつも蔵が建っていた。
子供が蔵に入ることは禁じられていたが、ある日、蔵を整理していた父が出納帳を見せてくれた。
一家の家計や収支を記した出納帳の数字は、過去に僕の先祖たちが生きた証だ。
──いいかい、朋久。これは我が家の大切な歴史なんだよ。
愛おしげに出納帳の表紙を撫で、父がそう告げる。捲ってみると、日付と金額、用途を記録した帳面で、そこには覚えたばかりの漢数字がたくさん書かれていた。
──数字がいっぱい……。
──そう、数字はすごいんだ。金額も日付も数字で表すだろう? 数字がわかれば、世界が見える。
──うん。
父は偉大なる一族の歴史を見せつけ、やたらと得意げだった。
数字は、日付だけでなくものの重さや大きさ、距離、あらゆるものを表せる。
時間の積み重ねでさえも。
アラビア数字でも、漢数字でも、表記の方法は違ったとしても意味は同じだ。
子供心に、それがまたすごいと思った。言葉が通じなくても、数字だけで異国の人とだってわかり合えるかもしれないのだ。
僕は熱心に教科書を読み込み、それに飽きると家中で数字を探した。新聞、父の読む書物、母のつけている帳簿。
一番情報量があるのは、やはり古い出納帳だった。旧家だけあって、出納帳はかなりの冊数が保管されていたからだ。
だが、そうした過去からの積み重ねは、ある日突然、すべて消滅した。文字どおり、消え失せたのだ。
それは、同居していた父方の祖母が起こした、とある事件のせいだった。
数字を読むのが趣味になって数年後、祖父が出先で倒れてそのまま亡くなった。
母方の祖父母は早くに亡くなり、僕にとって祖父といえば父方だけだったので、とても悲しかったのを覚えている。
その夜だ。
ふらりと外に出た祖母が蔵のすぐそばで焚き火を始め、そこにさまざまなものを投げ込み、燃やし始めたのだ。
祖父が大切にしていた先祖代々の証文やら何やらで、弓削家を名家たらしめる重要なものばかりだった。
僕が異変に気づいたのは、煙の匂いのせいだ。父はこれからの段取りを叔父と相談していて、外でのできごとは耳に届いていないようだった。
「お義母様、やめてください」
半泣きになった母が、日本髪を乱しながらそう訴える。
「いいんだよ、燃しちまうんだから!」
「この家の大事なものだとおっしゃってたじゃないですか」
父が誇らしげに話していた、弓削家の歴史。それがあっという間に灰に変わっていく。燃え尽きてしまう。
「悔しいじゃないか、あの人だけが、こんな……」
祖母は涙を流し、髪を振り乱しながら、更にものを火に投げ入れた。
祖母の投げ込んだ帳面がたちまち真っ黒になり、数字が書かれた紙片が空に舞い上がっていく。
時折、闇夜に散る火の粉は赤い星のようだった。
「朋久さん、お父様を呼んできて」
唯一祖母を止め得る父は叔父と話し込んでおり、いっこうに裏庭には姿を見せない。
「え、え……」
「早く!」
母に珍しく鋭い声で促されたものの、僕はその場に立ち尽くしたまま動けなかった。
だって、この光景は──なんて綺麗なんだろう……。
一族の歴史が、祖先たちが積み上げたものが燃えてしまう。僕が心惹かれた整然とした世界を壊されているのに、目を離せない。
あとから知った話だが、祖父は妾を作って好き放題やり、多額の借金をこしらえた。そのつけを祖母に押しつけて苦労をかけたくせに、自分はぽっくり逝ってしまった。
それが、祖母の最初で最後の大爆発に繋がったのだろう。
祖母の情が燃やす焔は、天にも届きそうなほどの勢いだった。
華やかで美しい火は、しばらく赤々と燃え続けた。
憑きものが落ちた祖母は、その夜から抜け殻のようになった。何を言ってもぼやけた表情で、僕や母はもちろん、父すら認識していないらしかった。
祖母は、自分の心さえも灰にしてしまったのだろうか。
あの焚き火を見て以来、僕は子供心に祖母を恐れた。赫の美しさに心を奪われた、自分を恐れた。
僕はあのとき、人を呑み込む情念とはどんなものなのかを直感的に知ってしまった。
だからこそ、僕はそうならないようにと心に決め、激しい感情に突き動かされる人たちを他山の石にしてきた。僕が城山の話をよく聞いたのは、自分とはまるで違う彼から学びを得ようと思ったためだ。
それにしても。
奔放で我慢が苦手、外で妾を囲う祖父と、それまで何年も溜めていた鬱憤を最悪のかたちで晴らした祖母と。
その両方の血を引いている僕は、いったい何者なんだろう?
長いあいだ電車に揺られたあとに僕は奈良駅で下車し、もうバスもなかったので、そこから下宿へ歩いて戻った。
途中途中で一休みしたから、二時間以上かかったはずだ。
街灯もあるが、このあたりでは月明かりが頼りになる。
最初は大野と会ったことの意味などを考えていたが、次第に、頭の中は空っぽになっていた。
軽く汗ばむほどの運動量で下宿に着いた頃には、あたりはすっかり夜になっていた。
大通りから一本角を曲がると、下宿先の玄関が見える。大家は昨日から法事で留守なので、家は真っ暗だ。無事に帰宅できることに安心し、僕は少し歩を緩めた。
「おい」
声をかけられたのは、そのときだった。
居丈高な物言いに何だろうと思いつつ振り返ると、そこにはカイゼル髭もいかめしい男と後ろにもう一人が立っている。二人組が警官なのは、制服を見て気がついた。
「何か、用ですか?」
周辺はしんと静まり返っていて、事件が起きた様子もない。このあたりはもともと年寄りと女子供ばかりの静かな土地だった。もしや、職務質問か何かだろうか。
「弓削朋久だな」
「はい」
「小笠原寧子さん殺害の嫌疑がかかっている。一緒に来てもらおうか」
「え?」
僕は鞄の中に入っている本を、無意識のうちにぎゅっと押さえる。
小笠原寧子だって?
もちろん、その名前は知っている。
黒目がちの大きな目と雰囲気が、幼い頃よく見た小鳥のつぐみに似ていると思っていた。
「殺害って、事故などではなく?」
「それはまだ調べている」
あの子が死んだ?
しかも、僕が殺したなんて、そんなわけがない。
濡れ衣にもほどがある。
「僕は今まで、買い物で京都に行っていたんです。そこで会った、証人だっています」
「話は署で聞こう」
冷ややかな物言いに戸惑い、僕はぎくしゃくと警官の後をついていく。
それが運命の分かれ道になると、知らないまま。
奈良監獄から脱獄せよ
8月23日刊行の、和泉桂さん初めての一般文芸作品『奈良監獄から脱獄せよ』の試し読みをお届けします。
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