時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。
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* * *
二
「おまえ、張り切ってんなぁ」
「頑張れば、刑期が短くなるって聞いたからさ」
話し声が背後から聞こえてきて、僕は俯き加減で薄い笑みを口許に浮かべる。
声の主は、先週入った新人だ。笑ってしまったのは、初犯の彼が何日で音を上げるのか、古参の囚人たちが賭けているのを知っていたからだ。それは、新人が入るたびに繰り広げられる賭けだった。金のやり取りは無理だが、差し入れの飴玉やおかずなど、賭けるものは何とでもなる。
「無理無理、せいぜい一日二日早まるくらいだって。そんなんじゃすぐに気持ちが切れちまうぜ」
「もうじき赤ん坊が生まれるんだ。一月でも早く出たいからさ」
僕にだって、あんなふうに躍起になっていた時期があった。
一生懸命努めていれば、誰かが見つけてくれる。こんな真面目な人物が監獄にいるのは何かの間違いだ、事情があるに違いないと裏を探ってくれるはずだ。
そして冤罪が暴かれ、真犯人が捕まる。
監獄生活も二年目の今にして思えば、あまりにも都合がよすぎるただの夢物語だ。
神の奇蹟なんてものは、この世には存在しない。
だから、僕は一つだけ心に決めている。
誰にも頼らずに、僕がこの手で奇蹟を起こす。
四十過ぎまでここに留まるなんて、冗談じゃない。
「おい、421号」
板張りの床に腰を下ろし、柿色の作業用の獄衣の袖を捲って作業を始めかけたところで、頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、紺色の制服を着た看守の片岡が目の前に立っていた。片岡は三十代後半くらいで、僕よりだいぶ年上だ。
看守の制服は洋装にブーツで、威厳を見せるためにいくつものボタンがついている。常にサーベルを携帯し、いざとなると躊躇いなくそれで囚人を殴る。筒袖で洗いざらしの着物を身につけている僕たちとは、看守は服装からして正反対だった。
「こいつに仕事を教えてやれ」
看守にぐいっと肩を押し出された青年は、新顔だろう。就業衣はまだ真新しくてぱりっとしているし、何よりも、洗濯による色落ちがなくて濃厚な柿色だったからだ。
ようこそ、難攻不落の奈良監獄へ。
僕は皮肉なことを考えながら、今の片岡の言葉を反芻する。
新人の胸元には、『四九六號』と墨書された布地が縫いつけられており、僕の視線はそこに吸い寄せられた。
496──完全数じゃないか。
湧き上がる興奮を誰かに気取られるのが嫌で、僕は自分の眼鏡をくっと押し上げるふりをして俯く。
完全数とは、その数字以外の約数の和が、その数字と同じになる数のことだ。
たとえば6は1+2+3=6だから、完全数にあたる。
古代から、6、28、496、8128が完全数なのは知られているが、見つかっている完全数は多くはなかった。
421号や496号とは僕らの称呼番号で、ここでは名前の代わりに番号で管理されている。娑婆の厄介ごとを監獄にまで持ち込ませないためとか、あるいは看守と囚人が関わりを持たないためとか、さまざまな配慮からのようだ。番号は一から順に振られているが、四桁の数字は見覚えがないので、どこかでまた振り直すのだろう。
胸に縫いつけられた小さな布には、僕たちの情報が詰まっている。
一例として、彼の布には『(3)』と記されている。(3)は囚人としての等級を表し、新入りは三級から始まる。等級はこの工場で行われる作業の成績や生活態度で決まり、僕は二級。もっと成績がいい者は、一級か特級だった。
「いいな?」
いいも悪いも、拒否する権利はない。
返事をする前に、後ろのほうの誰かが声を上げた。
「生徒を殺すようなやつに、センセイをやらせんのはどうなんですかねえ?」
「ちょっかいを出すなよ。こいつが『面倒』なやつなのはみんな知ってんだろ」
その言葉は効果覿面で、囚人たちはしんとなった。
496号は顔の造作がはっきりとしており、黒目がちの目には明るい光が宿る。
色恋沙汰には興味がない僕から見ても結構な男前だが、どんな罪を犯したのだろう。女性を騙したとか、殴ったとかだろうか。ここでは全員が丸刈りだが、髪形を今風にすればさぞもてるに違いない。
いや、496号の個人的な分析はどうでもいい。
完全数、男、既決囚。その三つの情報があれば十分だ。
「懲役二十年なんだから、いずれ教えるのも上手くなんだろ」
懲役二十年なのは間違ってはいないが、僕はここでは二年生なので残りは十八年強だ。頼むから、数字は正確に扱ってほしい。
「二十年なら、きっと、俺のほうが長いですね」
出し抜けに496号が口を開いたので、僕はぽかんと口を開けた。
「……は?」
「無期だから」
場違いなほど朗らかに笑いながら言った496号の言葉に、場がしんと静まり返る。
驚きから、僕は眼鏡のレンズ越しに相手をつい凝視してしまう。
こんなに楽しげに無期刑を告白するなんて、やけっぱちになっているんだろうか。
無期刑はいわゆる終身刑で、原則として一生涯監獄から出られない。
死刑の次に重い刑罰なのだから、もののはずみや正当防衛で一人殺したくらいでは、終身刑にならないはずだ。
このにこやかな青年は強盗殺人とか放火殺人とか、連続殺人とか、そういった身の毛もよだつ凶悪犯罪をやってのけたのか。
しかし、いかにも人懐っこそうな青年に憔悴した様子はまったくない。つまり、改悛の情は見るからにゼロだ。
完全数、無期刑、凶悪犯。
爽やかな風貌のくせに、二つの情報を書き換えねばならないくらい、とんでもない新入りだった。
奈良監獄から脱獄せよ
8月23日刊行の、和泉桂さん初めての一般文芸作品『奈良監獄から脱獄せよ』の試し読みをお届けします。
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