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奈良監獄から脱獄せよ

2023.09.14 公開 ポスト

二-1 無実の罪で投獄されたのは、難攻不落の奈良監獄。和泉桂

時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。

(1話目から読む方はこちらから)

*   *   *

「おまえ、張り切ってんなぁ」

「頑張れば、刑期が短くなるって聞いたからさ」

話し声が背後から聞こえてきて、僕はうつむき加減で薄い笑みを口許くちもとに浮かべる。

声の主は、先週入った新人だ。笑ってしまったのは、初犯の彼が何日で音を上げるのか、古参の囚人たちが賭けているのを知っていたからだ。それは、新人が入るたびに繰り広げられる賭けだった。金のやり取りは無理だが、差し入れの飴玉やおかずなど、賭けるものは何とでもなる。

「無理無理、せいぜい一日二日早まるくらいだって。そんなんじゃすぐに気持ちが切れちまうぜ」

「もうじき赤ん坊が生まれるんだ。一月ひとつきでも早く出たいからさ」

僕にだって、あんなふうに躍起やっきになっていた時期があった。

一生懸命努めていれば、誰かが見つけてくれる。こんな真面目な人物が監獄にいるのは何かの間違いだ、事情があるに違いないと裏を探ってくれるはずだ。

そして冤罪えんざいが暴かれ、真犯人が捕まる。

監獄生活も二年目の今にして思えば、あまりにも都合がよすぎるただの夢物語だ。

神の奇蹟きせきなんてものは、この世には存在しない。

だから、僕は一つだけ心に決めている。

誰にも頼らずに、僕がこの手で奇蹟を起こす。

四十過ぎまでここにとどまるなんて、冗談じゃない。

「おい、421号」

板張りの床に腰を下ろし、柿色の作業用の獄衣の袖をまくって作業を始めかけたところで、頭上から声が降ってきた。

顔を上げると、紺色の制服を着た看守の片岡が目の前に立っていた。片岡は三十代後半くらいで、僕よりだいぶ年上だ。

看守の制服は洋装にブーツで、威厳を見せるためにいくつものボタンがついている。常にサーベルを携帯し、いざとなると躊躇ためらいなくそれで囚人を殴る。筒袖で洗いざらしの着物を身につけている僕たちとは、看守は服装からして正反対だった。

「こいつに仕事を教えてやれ」

看守にぐいっと肩を押し出された青年は、新顔だろう。就業衣はまだ真新しくてぱりっとしているし、何よりも、洗濯による色落ちがなくて濃厚な柿色だったからだ。

ようこそ、難攻不落の奈良監獄へ。

僕は皮肉なことを考えながら、今の片岡の言葉を反芻はんすうする。

新人の胸元には、『四九六ごう』と墨書された布地が縫いつけられており、僕の視線はそこに吸い寄せられた。

496──完全数じゃないか。

湧き上がる興奮を誰かに気取けどられるのが嫌で、僕は自分の眼鏡をくっと押し上げるふりをして俯く。

完全数とは、その数字以外の約数の和が、その数字と同じになる数のことだ。

たとえば6は1+2+3=6だから、完全数にあたる。

古代から、6、28、496、8128が完全数なのは知られているが、見つかっている完全数は多くはなかった。

421号や496号とは僕らの称呼番号で、ここでは名前の代わりに番号で管理されている。娑婆の厄介ごとを監獄にまで持ち込ませないためとか、あるいは看守と囚人が関わりを持たないためとか、さまざまな配慮からのようだ。番号は一から順に振られているが、四桁の数字は見覚えがないので、どこかでまた振り直すのだろう。

胸に縫いつけられた小さな布には、僕たちの情報が詰まっている。

一例として、彼の布には『(3)』と記されている。(3)は囚人としての等級を表し、新入りは三級から始まる。等級はこの工場で行われる作業の成績や生活態度で決まり、僕は二級。もっと成績がいい者は、一級か特級だった。

「いいな?」

いいも悪いも、拒否する権利はない。

返事をする前に、後ろのほうの誰かが声を上げた。

「生徒を殺すようなやつに、センセイをやらせんのはどうなんですかねえ?」

「ちょっかいを出すなよ。こいつが『面倒』なやつなのはみんな知ってんだろ」

その言葉は効果覿面てきめんで、囚人たちはしんとなった。

496号は顔の造作がはっきりとしており、黒目がちの目には明るい光が宿る。

色恋沙汰には興味がない僕から見ても結構な男前だが、どんな罪を犯したのだろう。女性をだましたとか、殴ったとかだろうか。ここでは全員が丸刈りだが、髪形を今風にすればさぞもてるに違いない。

いや、496号の個人的な分析はどうでもいい。

完全数、男、既決囚。その三つの情報があれば十分だ。

「懲役二十年なんだから、いずれ教えるのも上手くなんだろ」

懲役二十年なのは間違ってはいないが、僕はここでは二年生なので残りは十八年強だ。頼むから、数字は正確に扱ってほしい。

「二十年なら、きっと、俺のほうが長いですね」

出し抜けに496号が口を開いたので、僕はぽかんと口を開けた。

「……は?」

「無期だから」

場違いなほど朗らかに笑いながら言った496号の言葉に、場がしんと静まり返る。

驚きから、僕は眼鏡のレンズ越しに相手をつい凝視してしまう。

こんなに楽しげに無期刑を告白するなんて、やけっぱちになっているんだろうか。

無期刑はいわゆる終身刑で、原則として一生涯監獄から出られない。

死刑の次に重い刑罰なのだから、もののはずみや正当防衛で一人殺したくらいでは、終身刑にならないはずだ。

このにこやかな青年は強盗殺人とか放火殺人とか、連続殺人とか、そういった身の毛もよだつ凶悪犯罪をやってのけたのか。

しかし、いかにも人懐っこそうな青年に憔悴しょうすいした様子はまったくない。つまり、改悛の情は見るからにゼロだ。

完全数、無期刑、凶悪犯。

爽やかな風貌のくせに、二つの情報を書き換えねばならないくらい、とんでもない新入りだった。

関連書籍

和泉桂『奈良監獄から脱獄せよ』

数学教師の弓削は冤罪で捕まり、日本初の西洋式監獄である奈良監獄に収監されていた。ある日、殺人と放火の罪で無期懲役刑となった印刷工の羽嶋が収監される。羽嶋も自分と同じく冤罪だったことを知った弓削は、彼とともに脱獄をたくらむ。典獄からの嫌がらせ。看守の暴力で亡くなった友人。奈良監獄を作った先輩からの期待。嵐の夜、ついに脱獄を実行する――。 人気BL作家が描く、究極の友情。

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