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奈良監獄から脱獄せよ

2023.09.21 公開 ポスト

二-3 凶悪犯であっても、誰かにものを教えることは楽しい。和泉桂

時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。

10月8日(日)に、旧奈良監獄で行われる「奈良矯正展」にて、和泉桂さんのトークショー&サイン会の開催が決定しました! 詳細は幻冬舎HPのお知らせにてご確認ください。

(1話目から読む方はこちらから)

*   *   *

「組み紐編みは初めてか?」

「あの、帯締めとかに使うやつですよね?」

「そうだ。ここでは羽織紐を作ってる」

組み紐は、細い綿糸や絹糸を何十本もり合わせて編んだ紐を指す。平らな平紐や、円筒形の丸紐、角形の厚みを持たせた角紐などの種類があった。旧幕府時代はかぶとや刀剣の飾りにも使ったそうだが、帯刀しなくなって久しい大正の御世みよでは、帯締めや羽織紐に利用する。

簡単な道具だけで作れるし、一度こつを覚えたらあとは慣れでできるので、僕らのような職人として働いた経験のない囚人に打ってつけだった。

もっとも、この監獄では組み紐だけを生産しているわけではなく、工場別に組み紐編みや機織はたおり、指し物製造などが行われている。この監獄には獄舎が一監から五監まであり、更に一階と二階に分かれている。それぞれの階に工場が設置され、ここは四監の二階なので、『四監上工場』と呼ばれていた。

「この監獄、煉瓦造りで洋館みたいに格好いいのに、作っているものは意外と地味なんですね」

確かに、奈良監獄は塀から表門、獄舎に至るまで赤茶色の煉瓦で彩られた立派な西洋風の建物だ。工場のように煉瓦を使われていない建物もあるが、総じて見た目は瀟洒しょうしゃで、何も知らなければどこぞの大金持ちの住まいにも見える。

「で、これ、どうするんですか?」

「売って、監獄の運営費──僕たちの生活費に充てるんだ」

「どうして?」

「自分たちの払った税金で、囚人を養うなんて腹が立つだろ。だから、できるだけここの経費は囚人が稼ぐんだ」

経費節減と更生の意味も兼ね、僕たちが食べる野菜も囚人が育てているくらいだ。

「そっか!」

昔ながらの監獄といえば、落語や講談に出てくる牢名主ろうなぬしを思い出すだろう。

僕も同じ印象を持っていた。

けれども、明治時代に日本の政府は監獄の運営方法を大きく転換させたのだ。話好きな典獄が何度も演説をぶったので、すっかり覚えてしまった。

その理由は、旧幕府が開国時に各国と結んだ不平等条約にあった。

欧米の列強と肩を並べ、不平等条約を是正するには、近代国家と認められなくてはいけない。

そのための努力の一つが、悪名高い鹿鳴館ろくめいかん外交だ。あれは夜な夜な舞踏会を開くことで、日本の文化レベルが欧米並みになったと知らしめる政策で、後世の人間から見るとひどく馬鹿馬鹿しいやり口だった。

それだけでは足りないので、政府は監獄の西洋化を推進させた。

というのも、収監した囚人に何もさせないのは、欧米からは近代国家にあるまじき人権侵害に見えるそうだ。仮に自国民が監獄送りになったとき、そんな非人道的な場所に入れられるのは、許されないというわけだ。

西洋式の監獄を作るために役人が海外に送られ、新しい監獄が模索された。

その結果の一つが奈良監獄で、囚人は無為に過ごす生活から一転して労働を義務づけられた。働きに応じて雀の涙ほどの賃金が出るが、監獄内では使い途みちがないので、出所の際にまとめて支払われる。正当な事情があれば、家族に送金もできた。

それを羽嶋に説明するのは面倒なので、僕はさっさと仕事の説明に入った。

「まず、これは丸台。そこに置いて作業する。それから、これが組み玉だ」

丸台は、見た目は小さな丸椅子に似ている木製の台だ。

椅子との違いは、底面に四本の脚を支える大きな四角い台座がついていて容易には倒れない点。そして、椅子でいうと座面にあたる上面は鏡と呼ばれ、中央に丸い穴が開いている点だ。

僕たちは床に直接座るので、丸台を床に置くとだいたい胸の下くらいの高さになる。

用意する道具はこの丸台とおもり、組み玉、小型のはさみ

鋏は小型とはいえ刃物なので、扱いはかなり厳重だった。

「これが組み玉?」

まだ糸を巻いていない木製の芯をてのひらに載せ、彼は不思議そうに尋ねる。

「組み玉は自分で糸を巻いて作るんだ」

円柱形の道具は中心がくびれていて、そこに糸を巻きつけてから作業を始める。

「まずは糸を縒るところからだ。巻くのはそのあとだ」

「わかりました」

凶悪犯の割には反応が素直な点に安心しつつ、今日は羽嶋の指導に集中しようと考えた。

 

正午。

昼食時間になったので、僕たちは作業場に併設された休憩室に移る。

工場には休憩室と便所が備えられており、朝に作業が始まると、夜の就寝時間まで一度も自分たちの監房に戻らない。つまり、便所に入るときくらいしか一人になれないので、昼食の三十分間だけでも羽嶋の指導から解放されると思うと、ほっとした。

食卓として低い台がいくつも置かれ、皆、決められた場所に座る。

片岡に指示されたらしく、隣に羽嶋が腰を下ろした。

配食夫から麦飯と味噌汁が配られ、喫食開始の合図とともに、僕たちは食事を始めた。

傍らの羽嶋は味噌汁の椀を手に取り、勢いよくそれをあおった。

「えっ」

「……」

思わず僕が声を上げたので、羽嶋は不思議そうにこちらを見やる。

いけない。僕が目指すのは模範囚で、看守に目をつけられるのは御免だ。

会話の糸口を作らぬよう、僕は彼を真似て味噌汁の椀を呷ってみた。

──う……。

舌先に触れたのは、じゃりっとした砂の感触だった。仕方なく、一度椀に吐き出す。

案の定、砂がたっぷり入っている。

ここで調理を担当しているのは、僕らと同じ囚人だ。炊事夫たちは最低限の人員で九百人分の食事を一気に作るため、効率重視で野菜はほとんど洗っていないと聞く。おかげで汁物の椀は、野菜についていた砂が底に溜まっている。さすがに不快なはずなのに、羽嶋は気づいていないんだろうか。

もっとも、世の中にはさまざまな人間がいる。砂くらい気にせずに飲み干すやつがいたって、別段、おかしくはない。

それよりも、僕の今の課題はどうやって効率よく組み紐編みを教えるかだ。

午前中は下準備で終わったので、午後からは実践に入らなくてはいけない。

僕に組み紐編みを仕込んでくれたのは、相内あいないという老人だ。

彼は足腰が弱ってしまって移動がつらいらしく、特別に自分の独房での作業を許されているので、長く顔を合わせていない。

相内の指導を思い出そうとしたが、もう二年近く前のことで難しかった。

だったら、僕なりのやり方でわかりやすく指導しなくては。

味気ない麦飯を口に運びながら、あれこれ筋道を考えてしまう。

やはり、僕は誰かに教えるのが性に合っているようだ。思考を巡らせるのが楽しく、まったく飽きない。

関連書籍

和泉桂『奈良監獄から脱獄せよ』

数学教師の弓削は冤罪で捕まり、日本初の西洋式監獄である奈良監獄に収監されていた。ある日、殺人と放火の罪で無期懲役刑となった印刷工の羽嶋が収監される。羽嶋も自分と同じく冤罪だったことを知った弓削は、彼とともに脱獄をたくらむ。典獄からの嫌がらせ。看守の暴力で亡くなった友人。奈良監獄を作った先輩からの期待。嵐の夜、ついに脱獄を実行する――。 人気BL作家が描く、究極の友情。

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