時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。
10月8日(日)に、旧奈良監獄で行われる「奈良矯正展」にて、和泉桂さんのトークショー&サイン会の開催が決定しました! 詳細は幻冬舎HPのお知らせにてご確認ください。
(1話目から読む方はこちらから)
* * *
「思ったよりも、肩、凝りますね」
食事を終えた羽嶋が、唐突に話しかけてきた。
こんなところで懐かれるのは面倒なので、僕は聞こえなかったふりをする。
「ほら、俺なんてばきばきです」
完全に無視している僕の態度をどう受け止めたのか、羽嶋はぐるぐると大きく肩を回した。
「馬鹿!」
「わっ!?」
思わず羽嶋の腕を掴み、それを押さえつける。
羽嶋の腕は僕よりも遥かに逞たくましく、指も長く筋張っている。
その体勢のままおずおずとあたりを窺ったが、監督の片岡は気づかなかったようだ。
……よかった。
僕は胸を撫で下ろし、羽嶋からすぐに離れた。
「えっと……何かまずいこと、しましたか?」
とぼけた表情に、頭を抱えたくなる。
監獄では守るべき規律は多すぎるくらいに多いのに、看守たちは、初日に心得をちゃんと叩き込まなかったんだろうか?
僕が指導すべき内容ではなかったが、面倒に巻き込まれるのは困る。
「大きな動きは、何かの合図とか喧嘩とかに見えるからやめたほうがいい。注意される」
「知らなかった」
「最初に教えてもらわなかったのか?」
「全然。どれくらいならいいんですかね? 首、回すのは?」
彼が首をぐるりと回すと、ぼきっと鈍い音がこちらにまで聞こえてくる。
「ほら、すごいでしょう。弓削さんは平気なんですか?」
「ここでは421号だ」
僕は自分の胸に書かれた、四二一號の文字を指さした。
「はい! で、肩凝り大丈夫なんですか?」
返事は素直なのに、どうして会話を続けるんだ……。
だが、ここで無駄に言い争うよりは適当にあしらったほうが早い気がして、半ば根負けした僕は「凝る」と答えた。
「やっぱり! 組み紐って難しいけど、ゆ……421号さんはどれくらいで一人前になりました?」
「……」
「俺だと、半年くらいかかるかなあ」
義務的に一言だけ返したのに、更に会話を広げようとするとは、不屈の精神の持ち主だ。
呆れて返答に窮していると、彼は「あっ」と申し訳なさそうに苦笑いした。
「そっか。私語禁止、でしたね」
僕は内心でため息をついた。
人懐っこいといえば可愛げはあるが、ここでの規律を守ってくれないのは困る。
こんなやつと、やっていけるのだろうか。
凶悪犯の抱く凶暴性、政治犯の持つ鬱屈、知能犯の漂わせる小ずるさ。そのいずれも感じさせないため、羽嶋は終身刑を喰らうような悪党に見えない。
だからこそ、かえって底知れない。そもそも凶悪犯は厄介なものだ。最低限の指導だけして、あとは無視に限る。
だいたい、監獄で誰かと親しくなっても意味はない。
裁判に負けて監獄に送られる羽目になったとき、担当弁護士はひどく心配し、囚人が書いた獄中記を餞別にくれた。
それを読み、僕はほかの囚人となるべく交わらないと決意した。再審を狙うならば、できるだけ品行方正に過ごす必要がある。有益な情報でもくれる相手なら仲良くしたいが、それにも対価が必要だ。変な派閥に組み込まれて、いいように使われるのも癪だった。
他人との交流が難しい監獄内であっても、娑婆にいた頃所属していた極道の組だったり、会社の関係者だったり、単に看守の好き嫌いだったりで、さまざまな派閥が生まれるのは仕方ない話だ。
看守たちは彼らが連帯しないように心がけているが、それでも、妙な企みをする連中はいるものだ。僕もつき合う相手を間違えれば、厄介ごとに巻き込まれかねない。
だから僕は、ここにいる全員と一線を引いて独立独歩で行こうと決めた。
それを知らしめる事件は、入獄後すぐに起きた。
僕の罪状を知った古参の囚人が、運動の時間に突っかかってきたのだ。
──あんた、自分の生徒を死なせたんだって?
絡んできたやつの第一声はそれだった。
「僕のせいじゃない」
「だったらどうして、ここに入れられたんだよ?」
「冤罪だ」
囚人たちはどっと笑った。
「冤罪のやつなんて、ここにゃ、ごまんといるよ」
「そうそう」
無論、それは監獄内でのみ通用する出来の悪い冗談だった。
「すかしやがって。そういうところが気に食わねえんだよ」
胸倉を掴まれて僕が顔をしかめると、囚人たちがわっと盛り上がる。看守が注意しないのは、彼らの目が届かない時機を見計らったのかもしれない。
「殴るのはかまわないが、ただで済むとでも?」
「何だって?」
「何かあれば、僕は看守に報告する。君の刑期は何年残ってる?」
「あと二年だ。それが?」
「意味もなく僕を殴ったせいで罪が増えるのは、馬鹿馬鹿しいと思わないのか」
「屁理屈捏ねやがって、気に食わねえな」
くだらない。
僕が顔を背けたのを見て、男が殴りかかってくる。僕はいっさい抵抗せず、なすがままに任せた。
当然、看守と顔を合わせたときには殴られたと訴えたが、取り合ってくれなかった。
僕がどんなにぼろぼろであっても、現場に居合わせなければ何も起きていないと見なされるのだ。
僕は囚人に殴られる都度、看守に告げ口をした。卑怯者だと嫌われてもかまわなかった。
僕に関わると面倒なだけだ。それを喧伝するためだけの愚行だったが、効果はあった。さすがに看守が注意するようになったのだ。
殴られればこちらの成績も下がるが、421号を殴っても得るものはないとほかの囚人たちが察した頃には、僕は「そういうやつ」と見なされ、軽蔑されつつも遠巻きにされるだけの存在になった。
それでいいと思っていた。むしろそのほうが楽だったのに、今更のように他人に掻き乱されてしまい、僕はひどく気が立っていた。
長い一日が、ようやく終わりかけていた。
作業を終えた僕たちは工場から退出し、行進して監房へ戻る。
総煉瓦造りの壮麗な建物は二階建てで、僕たちの工場と監房は二階にある。
二階の廊下は採光のため天窓が取りつけられ、床は中央部分が細長く刳り貫かれている。落下防止の鉄格子が被せられているが、こうすれば階下でも光が届くし、上下で互いの廊下も見える。要は、採光と逃亡の抑止に一石二鳥の仕組みだった。
廊下の両側には、それぞれの監房の扉がずらりと並び、戸口には番号が漢数字で表記されている。称呼番号と監房の番号は必ずしも一致しないので、称呼番号も記されていた。
こういう非効率なやり方が、僕には理解できなかった。
長い廊下の一方の端は工場で、もう一方の端は『中央看守所』だが、僕らは単に監視所と呼んでいる。
一階も二階も、複製のようにそっくりな構造だった。木造の監視所を中心に、五本の廊下が半円を描くように放射状に延びている。
単純計算では180÷4──つまり、四十五度ごとに廊下がある計算で、初めて見たときに僕はこの監獄の完璧な美しさにくらくらしてしまったくらいだ。
おまけに監視所から工場に向けては廊下に傾斜がつけられており、端から端まで見通せる。
監視所にいれば五方向を監視できる画期的な造りなので、見張りは一階も二階も常に一人しかいない。
ここに収容されてさえいなければ、僕は奈良監獄の美しさについて賛美したに違いない。
以前に名所として写真で見たが、玉ねぎのようなドームを載せた二本の尖塔を備え、アーチ形の出入り口がある表門は、驚くほどに壮麗だ。その先に、二階建ての立派な獄舎があるのだ。
「還房!」
全員の点呼のあとに監房に入ると、背後から分厚い扉が音を立てて閉まる。
ようやく、一人になった。
僕たちが暮らす四監は、夜間独居房と言われている。
文字どおり、夜にのみ一人になれる区画だ。
普段は起床から食事、排泄に至るまで管理されているので、一瞬でも『個』に戻れると安心する。
「……疲れた」
膝を抱えて座り込み、眼鏡を外して目頭を揉みながら弱音を吐く。もちろん、ここは独居房なので僕以外は誰もいなかった。
作業の疲労ではなく、完全に気疲れだった。
「何なんだ、あいつ……」
僕は膝の上に額を乗せ、目を閉じる。
羽嶋……羽嶋亮吾、だったな。
結局、一日目にして羽嶋の名前を覚えてしまった。
めでたく彼は、僕が名前を記憶した数少ない囚人の仲間入りだ。その気がなくても記憶に残る相手はいるが、たった一日で刷り込まれた相手は三人目だった。
奈良監獄から脱獄せよ
8月23日刊行の、和泉桂さん初めての一般文芸作品『奈良監獄から脱獄せよ』の試し読みをお届けします。
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