時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。
10月8日(日)に、旧奈良監獄で行われる「奈良矯正展」にて、和泉桂さんのトークショー&サイン会の開催が決定しました! 詳細は幻冬舎HPのお知らせにてご確認ください。
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* * *
三
「僕は無実なんです。本当です。何もやっていないんです!」
熱くなるつもりはないのに、僕は身を乗り出して早口で訴える。
日曜日。
面会に訪れた新聞記者の柿本は、初対面だった。若くはあったが、熱心な人物で僕の事件をしっかり調べてくれていた。
奈良県での政治家の腐敗について調査しているうちに、今回の事件について興味を持ったのだという。取材のため、わざわざ特別な許可を取ってくれたそうだ。
これまでは面会者など担当弁護士しかいなかったので、僕は感激に打たれていた。
「つまり、冤罪だとおっしゃるんですか?」
柿本は真剣な面持ちで、手帳に何ごとかを書きつけているようだった。
「はい。信じてくれるんですか?」
「でなければ調べに来ませんよ。あなたのような真面目な人が、女学生を殺めるとは到底思えません。私が再審請求をお手伝いします」
「本当ですか!?」
願ってもないことに、僕の声は上擦った。
落ち着け。今まで誰も信じてくれなかった。誰も話を聞きに来てくれなかった。
過剰に期待して心を躍らせても、どこかで突き落とされるのがおちだ。
「ええ。これほどの暴挙が許されるわけがありません。世間はわかってくれる。あなたは来年の今頃は、きっと娑婆に戻っています。復職だってできるかもしれない」
彼の声は熱っぽく、真心が籠もっているようだった。
「……」
嘘みたいだ。そんな都合のいい、夢みたいな話があるだろうか。
泣きだしそうになった僕は、唇をきつく噛む。
涙を堪こらえる僕の表情に気づき、彼は宥なだめるように微笑んだ。
「泣かないでください。涙は最後まで取っておきましょうよ。今は笑ってください」
「あり、がとう……ございます……ありがとう……」
そうだ。笑おう。
やっと、報われたんだ。
「っく……ふ……」
なのに、たまらずに嗚咽が漏れた。
目許からつうっと涙が零こぼれ落ち、頬を濡らしていく。
聞き慣れた笛の鋭い音が、廊下いっぱいに鳴り響く。
「起床!」
──え?
「柿本さん!?」
僕は慌てて跳ね起きてあたりを見回す。そこは先ほどまでいた面会室ではなく、いつもの監房だった。空気は冷え切っていて、まだ寒々しい。
これは夢、か……?
嘘だ。こんな現実的な夢があってたまるか。
だが、確認するまでもない。僕は薄い布団にくるまって、一人きりで寝ていた。
生あたたかい感触を覚えて目許に触れると、僕は本当に泣いていた。
「はは……」
乾いた笑いが漏れ、僕はうつ伏せになって枕を叩いた。
馬鹿みたいだ。
僕は子供の頃から夢の内容をよく覚えているほうで、悪夢にうなされて飛び起きることなどしょっちゅうだ。
それこそ、祖母がすべてを燃やす夢など幾度見たか数え切れない。
夢で一喜一憂するのは馬鹿馬鹿しいが、さすがに希望を与えられたあとに現実を見せつけられるのはつらい。
たかだか夢でこんなに落胆するとは、僕は相当心が弱っていたらしい。
正夢だった部分は、今日は日曜日だということくらいだ。
「……」
がたんと音が聞こえ、扉の下部にある食器孔から汁椀と茶碗が入れられる。
朝食はいつも、麦飯と味噌汁。それに漬物がつく。おかずは何日かに一度で、正月など特別な日だけ品数が増えた。食べ物を差し入れてもらうこともできるが、特に夏場は食中毒が多いので、料理によっては拒まれると聞いた。
「喫食!」
廊下の外から、合図の声が聞こえてくる。
僕は箸を手に「いただきます」と小声で言うと、味噌汁の椀を取り上げ、水面を揺らさないように口許に運ぶ。
不意に、味噌汁を豪快に飲んでいた羽嶋の精悍な顔を思い出し、僕は箸を止めた。
羽嶋の胃袋は、鋼鉄製なんだろうか……?
「……」
不思議だ。ほかの受刑者を思い浮かべるときは番号が先なのに、あいつは496号じゃなくて名前で思い浮かんだ。せっかくの完全数なのに、台無しだ。
いや、どうでもいい。
さっさと食べてしまおう。
監獄の食事は量が少ないので噛まずに呑み込むのがいいというのは、例の獄中記で学んだ。
よく噛むと消化が速く、すぐに腹が減るのだとか。もっとも、よく噛んだほうが満腹感があるという意見も聞き、どちらが正しいかは不明だ。
「終了!」
食事の時間が終わった合図に、僕は食器を手早く片づけた。
気を取り直した僕は、自分の頬を何度か叩いた。
日曜日は工場での作業もなく、比較的自由に過ごせる。
読書に耽るもよし、通信室に行って手紙を書くもよし。
結果が見えていながら、僕は毎週、しつこいくらいに外界の誰かへの手紙を書き続けていた。
基本的に勝算がない真似はしたくないが、それでも、これに関しては足掻続けたい。
僕に許可された外界との交信は、週に一度、一通だけだ。
可能な限りあちこちに手紙を書いたものの、家族も友人も返事をくれなかった。
家族には各方面に働きかけてほしいと頼んだのに、それすらも無視されている。彼らにとっては、弓削朋久という長男は汚点なのだろう。妹がとうに結婚していてよかった。
僕以外の囚人にとって最大の楽しみは、家族との面会だ。老若男女が、家族に会うために尖塔を備えた立派な表門をくぐる。
一週間で今日だけは、この監獄が華やぐのだ。
面会者が現れて呼び出される囚人の足音を聞きながら、僕は監房で頬杖を突く。
家族というのは、不思議だ。
差し入れを携えた妻子が足繁く訪れる相手が、人殺しの凶悪犯のこともあった。反対に、軽微な罪であっても、家族から絶縁されてしまう者もいた。
僕は後者だが、それ以前に自分から家族を捨てたも同然だった。
祖母の事件の直後、一家の大黒柱の父が卒中で倒れ、半身麻痺になってしまった。以来、快闊だった父はすっかり人が変わってしまい、介護を受け持つ母に当たり散らすようになった。
父が歩くときの、足を引きずるような音。
あの音は、理不尽な癇癪をぶつけられる予兆だった。まだ小学生だった僕は、どんな怪談よりも父の足音が怖かった。
数字の素晴らしさを語ってくれた父は、もう、この世界にはいないのだ。
苦手だった父親から離れるため、母と妹を置いて、逃げるように京都まで来てしまった。
だから、彼らが僕を見限るのもあたりまえといえばあたりまえじゃないか。
奈良監獄から脱獄せよ
8月23日刊行の、和泉桂さん初めての一般文芸作品『奈良監獄から脱獄せよ』の試し読みをお届けします。
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