時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。
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* * *
「421号、面会だ」
「えっ!」
看守が外から呼びつけたので、僕はどきっとした。
いったい、誰が?
「笠松正三だ。どうする?」
「……」
笠松は僕の事件で検事を務めていたが、判決の直後に定年退職して弁護士に転身したそうだ。知りたくもない彼の現状は、一度だけ面会に来た僕の弁護士が教えてくれた。
休日を潰して面会に来るとは、まさか僕を嵌めたことを後悔しているのか。
原則として家族や近しい者しか面会できないはずだが、そのあたりはどうにでもなるのだろう。
灰色の背広を着込んだ陰気な検事は、よく覚えている。裁判のときに僕から何としてでも不利な言葉を引き出そうとし、それがいっそ滑稽だったからだ。
寧子の死をどう思うかと問われれば、答えに困る。
若い身空で彼女が死んだのは気の毒だったが、僕のせいかと聞かれれば納得がいかなかった。従って、罪を償えと言われたってできるわけがない。
だが、それだけでは割り切れない。
もしかしたら、僕にも何かできたのかもしれない。事件を防げたのではないか。そう考えると、胸の奥が微かに痛む。
こんな境遇に僕を落としたのが、彼女だったとしても。
だから、彼女を恨んではいないのだ。
「元気そうですね」
「おかげさまで」
「今日は小笠原さんの代わりに伺いました。あの方、相変わらず気落ちしてますよ。何かお伝えすることは?」
やはり、小笠原の代理人か。
鉄格子を嵌め込んだ窓から入る薄い光が、男の額のあたりに降り注いでいる。
裁判でも小笠原にやけに肩入れしていると思っていたが、ここに来て、それを隠さなくなった。そもそも、小笠原は僕を逮捕させるときには警察に手を回していたし、検事である笠松にも同じようにしていたわけだ。
それでは、万に一つも僕が勝てるはずはなかったのだ。
そうまでして、僕を嵌めたかったのだという事実はあまりにも重かった。
おまけに、こうしてわざわざ顔を見に来るあたり、僕の担当弁護士よりよほどまめじゃないか。
あれほど憤っていた僕の弁護士ですら、きっと、負けた裁判のことなど忘れているだろう。
「ありません」
僕が本心から即答すると、彼は呆れたような面持ちになった。
「組み紐工場での成績は良好だそうですね。常に一二を争っておられるとか」
「……」
「小笠原さんは、主はいつでもあなたを見ておられるとおっしゃってました。あなたに罪を贖う気持ちさえあれば救われるのに」
全知全能とはいえ信者でもない者まで一人一人見張っているとは、神様というのはずいぶん暇な存在らしい。
小笠原はキリスト教徒で、近隣でも有名な敬虔な信者だという。笠松も同様に信者だそうで、彼らの強い連帯の理由が腑に落ちた。考えてみれば、橘樹高等女学校もキリスト教系の学校だった。
──もしおまえが何の罪も犯していないのであれば、潔白だというのならば、神はおまえを救うだろう。だが、救われないのであれば、それは──
小笠原の言葉は、僕にとっては呪詛にも等しかった。
だいたい、大事な一人娘が自死したのと乱暴されて殺害されたなどと噂されるのとでは、前者のほうがまだましではないのだろうか。
それとも、宗教的に自殺は許されないから、後者がいいと考えたのか。
「そっちこそ、悔い改めないんですか? 奸計で人を陥れるなんて、あんたたちの神様はすべて見てるんでしょう」
丁重に接してやる理由もないので挑発的に言ったが、笠松は冷笑にも似た表情を浮かべた。
「憐れな人ですね。──この際だから、教えてあげましょう」
「……」
僕は無視を決め込んだが、笠松は畳みかけてきた。
「お嬢さんの手紙は、もう一通あったんですよ」
「え?」
どきっとした。
それまで僕はふてぶてしく椅子の背に寄りかかっていたが、思わず身を乗り出してしまう。
「あなたへの最後の手紙です」
「何て書いてあったんだ!?」
僕は男に顔を近づけた。
もしや、そこには僕の無実を証明する内容が記されていたのではないか。でなければ、笠松がわざわざ餌をちらつかせるはずがない。
「知りたいのですか?」
「あたりまえだ!」
心臓が震える。
「残念ながら、悔い改めぬ方にお教えする必要はありません。これもご遺族の意向です」
「終了だ」
無慈悲にも面会時間が終わり、看守が僕を連れ出すために扉を開ける。
「言え!」
「どうぞ楽しい監獄生活を。まあ、あなたが無事に刑期をまっとうできるなら、ですが。ああ、手紙はいつでも見に来てください」
笠松は薄笑いを浮かべて、僕にだめ押しの言葉を投げつける。
仮釈放など遠い先なのだから、それこそ、脱獄でもしなければ読めないではないか。
「421号」
時間が来たならばそれ以上食い下がれず、僕は唇をきつく噛んだ。
笠松に背を向けて呼吸を落ち着けようとしたが、やはり、心臓が激しく脈打っている。
「……」
だめだ。どうしようもなく、心がざわめく。
ここで食ってかかっても無意味だとわかっていたが、僕は未練がましく振り返る。
笠松がにやにやしながら僕を見つめているのが、よけいに気に食わなかった。
看守に「おい」と小突かれるようにして、僕は面会室から外に出された。
僕への最後の手紙。
最後という言葉が引っかかる。
もしそれが遺書だったら、寧子は自殺だ。
すなわち、僕の無罪が証明されるのだ。
希望の光が射し込んできたように思え、僕は自分の右手を軽く握り締めた。
どうすれば、寧子の手紙を手に入れられる?
「おまえも人が悪いな」
廊下に出たところで唐突に言われ、僕は顔を上げる。
「一言謝ってやればいいだけだろ。あちらの親御さんはそれで気が済むんだ。どうしてそれができない? おまえには天罰がくだるだのなんだの、言いふらしてるらしいぞ」
「僕はそういうの、信じてないので」
そうだ。信じていないはずなのに、今の僕は、すっかり気持ちが揺らいでしまっている。
「おまえ、天理教だっけ?」
奈良という土地柄、このあたりは天理教の信者が多いので、天理教は特別扱いされていた。面会と同様に週に一度、僧侶や牧師の話を聞く機会があるが、教誨の際の小部屋もわざわざ独立して作られている。
「いえ……実家は浄土宗です」
寺や神社に行けば型どおりに手は合わせるが、その程度だ。
「どんな神様だって、悪いことをすりゃ罰を下すんだよ。おまえがここにいるのがその証拠だ」
看守にまで追い打ちをかけられるとは想定していなかったので、つい、口を噤つぐんでしまう。
歩きながらつぐみに似た黒い目の少女を思い出し、僕は瞬きをする。そういえば、監獄にいると小鳥を見かけない。
「おとなしそうな顔で、本当に強情だよな」
言い負かしたと思ったのか、彼は得意げな面持ちでつけ加えた。
「……」
面会室を出てふと顔を上げると、廊下には面会の順番を待つ羽嶋の姿があった。
どこかそわそわしている様子で、僕にも気づいていない。
羽嶋には会いに来てくれる人がいるのだと思うと、胸がぎゅっとなる。
たとえ終身刑の極悪人であっても、気にかけてくれる人はいるのだ。
僕なんて、嫌みを放つために来た笠松しかいないのに。
僕と彼の違いを、思い知らされたようだった。
奈良監獄から脱獄せよ
8月23日刊行の、和泉桂さん初めての一般文芸作品『奈良監獄から脱獄せよ』の試し読みをお届けします。
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