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奈良監獄から脱獄せよ

2023.10.10 公開 ポスト

三-3 寧子が残したもう一通の手紙とは一体何なのか。和泉桂

時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。

(1話目から読む方はこちらから)

*   *   *

奈良の冬は、とにかく寒い。標高が高い郷里も寒かったが、京都や奈良の冬はまた質が違う。こちらの冬は、手も足も指先が凍えてかじかむ。晴れていても陽射しは冷たく、どこか陰鬱だ。

顔を洗う水の冷たさが苦手で、この時期は水で顔を撫でるだけに止とどめていた。

廊下にいくつか置かれたストーブだけが熱源で、その熱は監房にまでは届かない。暖房としては、気持ち程度の効果しかなかった。

目覚めてもどことなく気分が沈んでいるのは、昨日の面会のせいだろう。

あれから気が散って、唯一の楽しみである読書にすら集中できなかった。

囚人は一冊ならば本の持ち込みが許されており、僕は難解な専門書を少しずつ大事に読んでいた。差し入れがあれば交換も可能で、何冊もある場合、残りは看守に預かってもらう。

昨日は、数式の意味も何もかも、僕の頭を素通りしていった。

寧子の最後の手紙とは、いったい何を意味するのか。

とはいえ、あの事件から二年近く経って、今更新事実が判明したというのはさすがに首を傾げてしまう。

警察の捜査でも、遺品に手を付けなかったとは考えづらい。少女の持ち物などたかが知れているし、家の中や蔵ならばまだしも、外にこっそり隠す才覚があるとは思えなかった。友達に託したという線もあるが、そんな間怠っこしい真似をするだろうか。

そもそも、遺族に公表する意思がないのなら、僕が娑婆に出て確かめるほかない。

それこそ、脱獄をするとか。

──馬鹿馬鹿しい。

脱獄なんて、できるわけがない。

僕は無実の罪でここに収監されているのに、脱獄をしたら今度こそ犯罪者になってしまう。たとえ冤罪を晴らすためだったとしても、法を破ることはできない。

雨模様の今日は朝の運動がないので、すぐに作業が始まる。

だらしない格好は減点の対象で、僕は素早く身なりを整えた。

看守の手で鍵が開けられ、全員が外に出て点呼が始まる。

そのあとは突き当たりにある工場まで、真っ直ぐな廊下を全員で行進するのだ。

壁際の通行は禁じられており、通路の中央寄りを歩いて工場へ向かう。

手前には更衣場があり、そこで丸首に筒袖の就業衣に着替える決まりになっていた。

着替えという一手間で、道具を持ち出すことを防いでいるわけだ。

「おはようございます!」

更衣場で顔を合わせた羽嶋が、陽気に挨拶してきた。

監獄に来て四、五日目だろうが、相変わらずやけに元気だ。

「おはようございます、弓削さん」

聞こえていないと勘違いしたのか、羽嶋は人懐っこい笑顔で繰り返す。

面倒くさい……。

五分もしないうちに僕をうんざりさせるなんて、これはもう一種の才能だ。

羽嶋が更に口を開こうとしているので、僕は仕方なく「421号だ」と言った。

「421号さん、おはようございます」

「……おはよう」

とうとう根負けして応えると、羽嶋は嬉しげに破顔した。

作業場では簡単な朝礼のあと、それぞれの仕事が始まった。

隣の席には羽嶋が座っている。

「編み方、忘れてないだろうな」

日曜日を挟んだので、もしかしたら綺麗さっぱり忘れてしまったかもしれない。

「何となく。とりあえず、やってみます」

丸台の前に腰を下ろし、羽嶋は作業途中でぶら下げたままの組み玉を手に取った。

糸の緊張を保っておけば緩まないので、しばらく放置しても問題はない。

組み玉が定位置にあるかを確認し、羽嶋は左斜め前の組み玉をすくい、自分の右脇に持ってくる。かたんと音を立てて組み玉が落ちたら、今度は右斜め前の組み玉を左脇に。次は逆だ。

木製の組み玉同士がかちかちとぶつかる音は心地よく、規則的でテンポもいい。

僕は少し安心し、改めて自分の作業を始めた。

羽嶋は初めての日曜日にゆっくり休めたのか、顔色はよく元気そうだ。

何よりも、瞳がきらきらと輝いている。

羽嶋を心配しているわけじゃない。ただ、新参者は自身の置かれた境遇に慣れるまで時間がかかるものだ。

なのに、羽嶋はあっさりとその問題を乗り越えてしまったらしい。

奇妙な男だ。

だが、こうして羽嶋のことを考えていると、寧子について思いを巡らせずに済んだ。

忘れていたはずの寧子のことを今日も思い出し、僕は唇を噛む。

難問に直面すると、人はこんなにも悩むものなのだ。答えが隠されている分、数学よりも難解だった。

そのうえ、笠松の当てつけめいた言葉が胸の中で澱よどんでいる。

僕が無事に刑期をまっとうできればとは、どういう意味なのか。

当てずっぽうで適当なことを言っている可能性はあるが、そう片づけようとしても、いい気分にはなれない。

今になってじわじわ効いてきた言葉は、まるで遅効性の毒だ。

やがて、昼食の時間になった。

ここでも羽嶋と一緒だが、ゆっくり食べていれば会話をしなくて済むだろう。

そう考える僕をよそに羽嶋は平然と食事を掻き込み、味噌汁を勢いよく飲む。

たまらずに彼をじっと見つめていると、羽嶋が僕の視線に気づいた。

「何か?」

「あ……いや、べつに」

僕が気にしすぎているだけで、今日はあまり砂が入っていないとか?

箸で底を軽くさらってみると、いつものようにじゃりじゃりと嫌な音がした。

つまり、この男が鈍いだけらしい。

関連書籍

和泉桂『奈良監獄から脱獄せよ』

数学教師の弓削は冤罪で捕まり、日本初の西洋式監獄である奈良監獄に収監されていた。ある日、殺人と放火の罪で無期懲役刑となった印刷工の羽嶋が収監される。羽嶋も自分と同じく冤罪だったことを知った弓削は、彼とともに脱獄をたくらむ。典獄からの嫌がらせ。看守の暴力で亡くなった友人。奈良監獄を作った先輩からの期待。嵐の夜、ついに脱獄を実行する――。 人気BL作家が描く、究極の友情。

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