時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。
(1話目から読む方はこちらから)
* * *
奈良の冬は、とにかく寒い。標高が高い郷里も寒かったが、京都や奈良の冬はまた質が違う。こちらの冬は、手も足も指先が凍えてかじかむ。晴れていても陽射しは冷たく、どこか陰鬱だ。
顔を洗う水の冷たさが苦手で、この時期は水で顔を撫でるだけに止とどめていた。
廊下にいくつか置かれたストーブだけが熱源で、その熱は監房にまでは届かない。暖房としては、気持ち程度の効果しかなかった。
目覚めてもどことなく気分が沈んでいるのは、昨日の面会のせいだろう。
あれから気が散って、唯一の楽しみである読書にすら集中できなかった。
囚人は一冊ならば本の持ち込みが許されており、僕は難解な専門書を少しずつ大事に読んでいた。差し入れがあれば交換も可能で、何冊もある場合、残りは看守に預かってもらう。
昨日は、数式の意味も何もかも、僕の頭を素通りしていった。
寧子の最後の手紙とは、いったい何を意味するのか。
とはいえ、あの事件から二年近く経って、今更新事実が判明したというのはさすがに首を傾げてしまう。
警察の捜査でも、遺品に手を付けなかったとは考えづらい。少女の持ち物などたかが知れているし、家の中や蔵ならばまだしも、外にこっそり隠す才覚があるとは思えなかった。友達に託したという線もあるが、そんな間怠っこしい真似をするだろうか。
そもそも、遺族に公表する意思がないのなら、僕が娑婆に出て確かめるほかない。
それこそ、脱獄をするとか。
──馬鹿馬鹿しい。
脱獄なんて、できるわけがない。
僕は無実の罪でここに収監されているのに、脱獄をしたら今度こそ犯罪者になってしまう。たとえ冤罪を晴らすためだったとしても、法を破ることはできない。
雨模様の今日は朝の運動がないので、すぐに作業が始まる。
だらしない格好は減点の対象で、僕は素早く身なりを整えた。
看守の手で鍵が開けられ、全員が外に出て点呼が始まる。
そのあとは突き当たりにある工場まで、真っ直ぐな廊下を全員で行進するのだ。
壁際の通行は禁じられており、通路の中央寄りを歩いて工場へ向かう。
手前には更衣場があり、そこで丸首に筒袖の就業衣に着替える決まりになっていた。
着替えという一手間で、道具を持ち出すことを防いでいるわけだ。
「おはようございます!」
更衣場で顔を合わせた羽嶋が、陽気に挨拶してきた。
監獄に来て四、五日目だろうが、相変わらずやけに元気だ。
「おはようございます、弓削さん」
聞こえていないと勘違いしたのか、羽嶋は人懐っこい笑顔で繰り返す。
面倒くさい……。
五分もしないうちに僕をうんざりさせるなんて、これはもう一種の才能だ。
羽嶋が更に口を開こうとしているので、僕は仕方なく「421号だ」と言った。
「421号さん、おはようございます」
「……おはよう」
とうとう根負けして応えると、羽嶋は嬉しげに破顔した。
作業場では簡単な朝礼のあと、それぞれの仕事が始まった。
隣の席には羽嶋が座っている。
「編み方、忘れてないだろうな」
日曜日を挟んだので、もしかしたら綺麗さっぱり忘れてしまったかもしれない。
「何となく。とりあえず、やってみます」
丸台の前に腰を下ろし、羽嶋は作業途中でぶら下げたままの組み玉を手に取った。
糸の緊張を保っておけば緩まないので、しばらく放置しても問題はない。
組み玉が定位置にあるかを確認し、羽嶋は左斜め前の組み玉をすくい、自分の右脇に持ってくる。かたんと音を立てて組み玉が落ちたら、今度は右斜め前の組み玉を左脇に。次は逆だ。
木製の組み玉同士がかちかちとぶつかる音は心地よく、規則的でテンポもいい。
僕は少し安心し、改めて自分の作業を始めた。
羽嶋は初めての日曜日にゆっくり休めたのか、顔色はよく元気そうだ。
何よりも、瞳がきらきらと輝いている。
羽嶋を心配しているわけじゃない。ただ、新参者は自身の置かれた境遇に慣れるまで時間がかかるものだ。
なのに、羽嶋はあっさりとその問題を乗り越えてしまったらしい。
奇妙な男だ。
だが、こうして羽嶋のことを考えていると、寧子について思いを巡らせずに済んだ。
忘れていたはずの寧子のことを今日も思い出し、僕は唇を噛む。
難問に直面すると、人はこんなにも悩むものなのだ。答えが隠されている分、数学よりも難解だった。
そのうえ、笠松の当てつけめいた言葉が胸の中で澱よどんでいる。
僕が無事に刑期をまっとうできればとは、どういう意味なのか。
当てずっぽうで適当なことを言っている可能性はあるが、そう片づけようとしても、いい気分にはなれない。
今になってじわじわ効いてきた言葉は、まるで遅効性の毒だ。
やがて、昼食の時間になった。
ここでも羽嶋と一緒だが、ゆっくり食べていれば会話をしなくて済むだろう。
そう考える僕をよそに羽嶋は平然と食事を掻き込み、味噌汁を勢いよく飲む。
たまらずに彼をじっと見つめていると、羽嶋が僕の視線に気づいた。
「何か?」
「あ……いや、べつに」
僕が気にしすぎているだけで、今日はあまり砂が入っていないとか?
箸で底を軽くさらってみると、いつものようにじゃりじゃりと嫌な音がした。
つまり、この男が鈍いだけらしい。
奈良監獄から脱獄せよ
8月23日刊行の、和泉桂さん初めての一般文芸作品『奈良監獄から脱獄せよ』の試し読みをお届けします。
- バックナンバー
-
- 和泉桂×前畑洋平×元刑務官クロストーク#...
- 和泉桂×前畑洋平×元刑務官クロストーク#...
- 和泉桂×前畑洋平×元刑務官クロストーク#...
- 四-5 羽嶋の罪は、冤罪だったのか――。
- 四-4 羽嶋の罪状を知り、弓削は失望を覚...
- 四-3 なぜ、僕の行く先々に羽嶋がいるの...
- 四-2 羽嶋の教育から解放されて訪れた、...
- 四-1 監獄でも陽気な羽嶋に、自分とは違...
- 三-7 自由を求めるのは、人として当然の...
- 三-6 粗暴な囚人に誘われても、勝算のな...
- 三-5 今後18年、単調な日々を繰り返す...
- 三-4 無期懲役週とは思えない天真爛漫さ...
- 三-3 寧子が残したもう一通の手紙とは一...
- 三-2 面会にあらわれたのは、事件の検事...
- 三-1 冤罪を晴らしてくれるかと思った新...
- 二-5 警察の取り調べも裁判も、力がある...
- 二-4 ほかの囚人と交わらないと決めたは...
- 二-3 凶悪犯であっても、誰かにものを教...
- 二-2 完全数で無期刑の凶悪犯は、人懐っ...
- 二-1 無実の罪で投獄されたのは、難攻不...
- もっと見る