時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。
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* * *
「421号さんって魔性なんですか?」
「は?」
マショウという言葉が、咄嗟に漢字にならなかった。その言葉が『魔性』だとわかった瞬間、僕は噴き出していた。
「何だ、それ」
「房の人に言われました。もめごとを起こしたし、仲のいい囚人もいるし、ここでもひいきされてるって」
「え?」
理解できない。
もめごととは、監獄に来てすぐに殴られまくった件だろう。あれは一方的に目をつけられただけなのだが、そう見えない人もいたのかもしれない。
それはともかくとして、仲のいい囚人なんて一人も浮かばない。指導役だから仕方ないとはいえ、僕にしつこく話しかけてくるのは羽嶋くらいのものだ。
ひいきとやらに至っては、これだけ侮蔑されているのだからそんなわけがないことは一目瞭然のはずだった。
「ここに赤い印、ついてるし」
彼の人差し指の動きにつられて、僕は自分の襟を見下ろす。
ああ、これか。
相変わらず、彼は自分の暮らす監獄についての理解度が低すぎる。看守たちは、いったいどんな新人教育を行っているのだろう。
「成績優秀者の印だよ」
「成績って?」
もしかして羽嶋は何も知らないのかと、僕は片岡をちらりと見やった。椅子に腰を下ろした片岡は、退屈そうに大きな欠伸を噛み殺している。多少はここのルールを説明してやるべきだろうと、僕は不承不承、口を開いた。
「ここでは工場での作業の成果や普段の生活態度で、成績をつけるんだ」
「大人なのに、成績をつけられるんですか?」
「茶化すんじゃない。とにかく、優秀者には特典があるんだ。手紙を書ける回数が増えるとか……若干、過ごしやすくなる」
娑婆なら、子供騙しのささやかな褒美にすぎない。しかし、自由の利かない監獄においては、そうした特典の効果は絶大だ。
「それ、どうやってなるんですか?」
羽嶋は目を輝かせた。
「質のいい商品をたくさん作るんだ。言っておくが、時間をかけていいものを作るのは普通だ。そこそこ手早く作るんだ。逆に、道具を壊したりすると失点になる」
「なるほど。じゃあ、俺も目指してみようかな」
いくら器用でも、そう簡単に経験の差を埋められるわけがない。なのに堂々と言い放った羽嶋の脳天気さと自信とが、癪に障さわってしまう。
それでも、むっとした感情を隠すくらいの社会性はあった。
「──いいんじゃないか。売り上げが上がれば、ここの監督も喜ぶ」
「そうなんですか?」
羽嶋はきょとんとする。
「工場同士で競ってるんだ。成績がいいと、時々お茶が振る舞われる」
「なるほど。俺が頑張れば、みんなにいいことがあるってわけですね」
「まあ、そうなる」
「なら、頑張ります!」
ぐっと握り拳を作り、羽嶋は威勢よく宣言した。
「今日は一昨日よりもちょっと進んだし、少しは上手くなってるかも」
「一寸」
「え?」
「編めたのは、一寸だ」
おとなげなかったが、つい、僕は羽嶋に突っかかってしまう。
「測ってたんですか!?」
「僕の指、一節がだいたいそれくらいなんだ」
「へえ……言われてみればそうかも」
羽嶋はしげしげと自分の手を見つめ、それから僕の手に視線を向けた。
「個人差があるから、定規を借りてみるといい」
何となくその視線が鬱陶しくなり僕は思わず指を握り込んだ。
「そっか。俺の指、どれくらいなんだろ」
羽嶋は自分の手と指を大きく広げ、首を傾げた。
その素直さが女学校での生徒たちと重なりかけ、いつの間にか緩みかけた口許を僕は慌てて引き締めた。
「できました! 見てください」
その言葉に僕は手を止めて、羽嶋が作業している丸台の鏡の下を覗き込んだ。
「だめだ」
羽嶋の指導を始めて、三日目。
彼は作業が丁寧なせいで、進捗はあまり芳しくない。一定の長さを編むごとに僕が確認しているが、初心者なのだから劇的に上達するわけではなかった。
「どこが、ですか?」
彼の声には、今回はよくできたはずなのにという不満がありありと滲んでいる。確かに熱心に頑張っていたのは知っているが、だからといって、安易に及第点は与えられなかった。
「ここだけ編み目が太いだろう?」
「あ!」
真っ白な組み紐を汚さぬように注意しつつ僕が指さしたところを見て、羽嶋が驚いたように声を上げる。完全に虚を衝かれた様子で、まるで気づいていなかったようだ。
「糸にちゃんと内向きの縒りをかけないと、膨らんで見映えが悪くなる」
「だめかあ……」
がっくりと羽嶋の肩が落ちる。
わかりやすいほどの落ち込みぶりに、ちょっときつすぎただろうかと僕は言い方を変えた。
「もちろん、これでも売れないわけじゃない。でも、等級は下がる。材料費は同じなのに、もったいないだろう?」
葬式ではよれよれの品ではなく、厳粛な気持ちで美しい羽織紐を使いたい。自分が羽織を着る機会がいつあるのかと思いつつ、僕は静かに告げる。
「せっかくの晴れ着だから、綺麗に仕上げないとですよね」
うんうんと頷き、羽嶋は納得した様子だった。
「……」
羽嶋にとって、羽織は晴れ着なのか。
そう認識した途端、ぞわりと背筋が冷たくなる。
見知らぬ誰かの晴れの日のために羽織紐を編むようなやつなのに、無期刑の凶悪犯。
気味が悪いくらいに相反している。
もちろん、監獄にいればさまざまな人物に出会う。
ここに来て一番参ったのは、自分を無罪だとのたまう囚人の多さだ。僕は人と関わらない方針だったが、だからといって、誰ともしゃべらないわけではない。
人を殺めてしまった罪の意識から犯罪の事実を心の中でなかったことにし、自分は無罪だと主張する者。
手をかけた相手は殺してもかまわないやつだったという認識から、無罪だと述べる者。
反省したのかどうかも曖昧で、刑の長さに罪を犯した事実さえ忘れてしまう者。
多くの者が自身を無罪だと言い張るせいで、誰も真面目に取り合わない。
一方で、僕のように嵌められた人間は、ほかにいるのかどうかすら不明だった。
「組み玉を逆に動かせば解けるから、失敗したところからやり直せる」
「はい、先生!」
羽嶋の明るい声が工場に響き、周囲の連中がどっと笑った。
先生……。
いきなり、後ろから頭を殴られたような気がした。
僕が無反応なのに気づき、羽嶋は「あっ」と自分の口許を一度押さえた。
「う、えっと、すみません。小学校の先生を思い出して……その……」
教師という過去は、僕には嫌なものではなかった。
「──いいから、続けて」
「すみません」
傷ついたわけじゃない。
ここで長く暮らすには、自分の感情を鈍らせるほかない。そうでなければ、単調な日々に耐えられなくなるからだ。けれども、それが習い性になると、僕は誰かに負けたような気分になってしまう。
悔しいじゃないか。
僕の運命をねじ曲げたやつらに、人格まで変えられてしまうようで。
どんなにささやかであっても日々に抗わなければ、僕は僕でなくなってしまう。
奈良監獄から脱獄せよ
8月23日刊行の、和泉桂さん初めての一般文芸作品『奈良監獄から脱獄せよ』の試し読みをお届けします。
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