時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。
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* * *
するすると組み紐を解く羽嶋を眺めていた僕は、はっとして彼の肩に触れた。
「おい」
「!」
びっくりしたように彼がこちらに顔を向けたので、慌てて手を離す。
羽嶋に影響されたのか、気安すぎる真似をしてしまった。
「悪い……でも、解きすぎだ」
「……え!?」
僕の言葉の意味を掴みかねたのか、彼は声を上擦らせた。
「その辺は綺麗に編めていただろう?」
「つい、勢いで。けど、こつはわかったんで、やれそうです」
羽嶋は微笑む。
「ありがとうございます!」
声が弾んでおり、彼が本気でこの作業に熱中しているのは伝わってきた。
「成績優秀者は遠いなあ……」
「そりゃそうだろう」
あまりにも楽観的な様子に、僕は逆に毒気を抜かれてしまう。
羽嶋は真面目で、文句一つ言わずに働く。素直で明るく、娑婆にいれば愛されるべき資質の持ち主だろう。
だが、ここは監獄だ。
たとえ軽微な罪でも、皆、どこかしらでお天道様の下を歩けない後ろめたさを引きずっているものだ。
なのに、羽嶋の明朗ぶりはどうだろう。
健やかなのはいいことだが、監獄という場所では噛み合っていない。異常とも言えた。
希にこういう心底おかしいやつが、監獄には紛れ込んでいる。人を殺しても何とも思わないし、ゆえに罪悪感も存在しない。
もっとも、僕だって生徒を手にかけたくせに罪の意識すらないやつだと受け止められているのだろう。
考えたくもないが、僕と羽嶋は、表向きは似た者同士なのかもしれなかった。
工場での作業が終わった夜九時には、僕はすっかり疲れてしまっていた。
肉体的な疲労に加え、生徒を持ってしまった気疲れのせいだ。
おまけに、監房に戻る際には、必ずやらねばならない嫌な儀式がある。
「お願いします。421号」
全裸になった僕は看守の前で、高々と両手を上げて万歳をする。足裏まで見えるように片足ずつひょいひょい上げて飛び跳ね、同時に口を大きく開けて舌を出す。ついで後ろ向きになって背中側を見せ、工場から道具を持ち出していないと証明する。
我ながら間抜けな姿だが、順番を待っている連中は決して笑わない。これは工場を出ていく者全員に課されており、誰もが自分自身の滑稽さを知っているからだ。
独特のやり方は、ここでは『カンカン踊り』と呼ばれている。
こちらは踊っているつもりではないが、まるで舞踏のように見えるところからついた名前だとか。
最初は、こんなくだらないことをやらされるのは嫌でならなかった。
インテリで通ってきた僕が、総身に刺青を纏まとっているような極道と区別なく、馬鹿げた踊りをさせられるのだ。しかも、嫌がって適当に動くと、そのときだけは思い切りの悪さを嘲けられた。彼らは踊りそのものではなく、プライドを捨てられないやつを嘲笑うのだ。
それに気づいたとき、僕は愕然とした。
この踊りは、人の悪意の塊だとわかったからだ。
それが今やすっかりカンカン踊りに慣れ、嫌ではあっても自分の滑稽さも何とも思わないくらいに麻痺してしまった。
「よし」
「ありがとうございました」
踊り終えた僕は、看守の許可をもらい、就業衣から普段の獄衣に着替えて息をついた。
ようやく、今日も一日が終わる。
あと十八年あまりだから、単純計算して六千五百日以上もこんな似たような日々を繰り返すのか。もしかしたら途中で違う作業に変更させられるかもしれないが、時間割は大差ない。
それではさすがに、頭がおかしくなりそうだ。
看守の指示に従い、長い廊下を歩いて監視所に近い監房の前に立つ。扉は開いているが、中に入れるのは点呼が終了してからだ。
一人一人点呼され、胸に縫いつけられた称呼番号と監房に掲示された番号が一致しているかを看守に確認される。
背筋を伸ばして順番を待っていると、いきなり、右側から誰かが近づいてきた。
「よう、先生」
低い声で呼びかけられて、ぎょっとしてしまう。
413号。
素数でも完全数でもフィボナッチ数でも何でもないが、彼の番号はどうしたって忘れられない。数字そのものではなく、人間性に問題がありすぎるからだ。
ぱっと見はなかなかの男前だが、四監において、この男は僕や羽嶋なんて目じゃないほどの問題児だ。
姓は山岸で、下の名前は知らない。
殺人罪で収監されている彼は、僕が二人目に名前を覚えた人物だった。
単調な毎日はつまらなかったものの、一日の最後に山岸と顔を合わせるなんていうアクシデントはまったく嬉しくなかった。工場には来ていなかったので、ほかの場所にいたのだろう。
急いで左手にある監視所に視線をやったが、看守は困ったように目を逸らす。
「ん? 何だよ、おしゃべりしてくれねえのかよ?」
山岸がずいっと距離を詰めて、僕をごく間近で見下ろす。
「会いたかったのに、つれないよなあ」
息が額にかかるほどの距離感に困惑し、何も言えなかった。
怖かった。
好きでも嫌いでもないが、僕はこの男に本能的な恐怖を抱いている。
「なあ、黙ってないで何か言えよ」
どん、という鈍い音が耳のすぐそばで響き、僕は全身を硬直させた。
彼は素手で、僕の監房の扉を殴りつけたのだ。
「いってえ」
山岸の呻うめき声が耳許で聞こえ、「大丈夫か?」と咄嗟に尋ねる。
「やっと口利いてくれた。先生はやっぱ、心配だけはしてくれんだな」
そういうわけじゃない。三寸(約9センチ)ほどある扉をこの勢いで殴れば、骨が折れたっておかしくない。
僕のせいで怪我をされるのは成績に関わる──かもしれない。一方的に絡まれている今の状況だったら、僕のせいとは言えないが、よくない記録が残るのは御免だ。
「今日も相変わらず、あの辛気くせえ作業してんの?」
「そうだ」
「たまには部屋で本でも読もうぜ」
「労働は義務だ」
「つまんねえの。俺はちょうど医務所に行っててさ」
僕を見つめる黒々とした瞳は、まるで、星のない夜空のようだ。
その目で見られると、蛇に睨まれた蛙のように身動きできなくなってしまう。
太い眉と濃い睫毛。山岸の顔立ちは、全体的にはっきりとしている。体格も立派で、僕からすれば見上げるような偉丈夫だ。衣服を整えれば欧米の映画スタアにも似た雰囲気だが、異様なのは丸刈りにした頭から右のこめかみにかけての五寸(約15センチ)ほどの大きな傷だ。
彼は日露戦争に従軍し、頭に砲弾が直撃して大怪我を負ったという。
そんな彼の罪状は、素手で友人を殴り殺したという凄惨なものだ。機嫌がいいときはまともに作業に従事するが、虫の居所が悪いと平然と暴れる。
僕にとっては、最も関わり合いたくない人物だ。
山岸に比べたら、羽嶋なんて可愛いものだった。
奈良監獄から脱獄せよ
8月23日刊行の、和泉桂さん初めての一般文芸作品『奈良監獄から脱獄せよ』の試し読みをお届けします。
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