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奈良監獄から脱獄せよ

2023.10.19 公開 ポスト

三-6 粗暴な囚人に誘われても、勝算のないことはしない。和泉桂

時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。

(1話目から読む方はこちらから)

*   *   *

「おい、何をしてる!」

片岡が腰に下げたサーベルをがちゃがちゃと鳴らしながら走ってきたが、山岸には近づこうとしない。

彼は監獄で大暴れした前科が何度もあり、呼びつけられた看守が負傷する事件が立て続けに起きた。怪我をした看守たちは復帰せずに辞めてしまい、以来、山岸は腫れ物扱いだ。一種の特別扱いに、囚人たちは彼を『大将』というあだ名で呼んでいるくらいだった。もちろん、それは彼を揶揄するもので、お山の大将とかそういう意味合いのようだった。

機嫌がよければ作業をいくらでも進められるうえ、人一倍手先が器用らしい。おかげで、監房の入り口にかけられた札は成績優秀者の赤色だ。

「そうそう、本でさ、わかんないところがあるんだよ。今度、教えてくれよ」

答えられなかった。

「頼むよ。あんた、頭いいんだろ。説明を聞きたいしさ」

「典獄の、許可が出たら……」

やって来た片岡の顔色を窺いつつ、僕は掠れ声でそう言う。

もう、いいかげんに助け船を出してほしい。

山岸と何か約束をしてそれを破れば、僕はそれこそ顔が変形するまで殴られるかもしれない。

「413号、おとなしくしろ」

「してるだろうが」

「どこがだ!」

片岡が一喝すると、山岸は無言で相手を見据えた。

凄まれた片岡は一歩後退ったが、気を取り直したように山岸を睨み返す。

「監房に戻れ! また丸房に入れられたいのか!」

片岡と様子を見ていた別の看守が恫喝したが、山岸の表情はまったく変わらなかった。

「いいぜ、べつに。あそこはゆっくり寝れるしな」

一階にある重屏禁房は真っ黒なペンキが内部に塗りたくられ、光はいっさい射さないそうだ。唯一、食事のときだけ、小さな食器孔が開けられ、その一瞬だけ光を感じられるとか。

噂には聞いていたが、実際に見たことはない。脱走を企てたり看守に反抗したりと、監獄に来てから特に重い規律違反を犯した囚人が入れられるため、僕とは無縁だからだ。酷い環境らしく、たいていの囚人は、戻ってくると牙を抜かれたようにおとなしくなってしまう。だが、山岸は何度丸房にぶち込まれても、何一つ変わらずに鼻歌交じりで帰ってくるのだ。もちろん、鼻歌は禁止なのだが、誰も彼を抑止はできない。

「いいかげんにしろ!」

「うるせえな! 俺は先生と話してんだよ!」

凄むような山岸の口ぶりに、サーベルを構えた片岡が緊張を滲ませる。

「それとも、あんたらが教えてくれんの?」

なぜか知らないが、僕は日頃から山岸によく絡まれていた。

山岸は機嫌よく会話をしていたかと思うと、いきなり胸倉を掴んで殴りかかるようなやつだ。僕だって、何度もそういう目に遭っている。

反面、粗暴だが読書を好み、この刑務所では数少ないインテリの部類に入る。だからこそ、仲間意識もあって僕に声をかけてくるのだろう。

こちらとしては、いい迷惑だ。

「いいだろ? 教えてくれるよな」

ぐいっと唐突に肩を抱き寄せられ、僕はぎょっとした。慌てて山岸を押し退けようとしたが、力では敵わない。

「あんた、優しいしさ。最初からそうだよな」

「僕は……」

どういう誤解なのかと、僕は眉を顰める。

彼に優しく振る舞った記憶はまったくなかった。

そもそも、ここでは他人に親切にする機会なんてほとんどない。

「ここじゃだめなら、一緒に出ようぜ」

「は?」

「脱獄ってやつ? あんただって、こんなところにいたくないだろ?」

「……」

いったいどう答えればいいんだ。

もちろん、出たくないと言えば嘘になるが、出たいと言えば脱獄を企てたと看守に咎められかねない。

「俺だったら、あんたを出してやれる」

脱獄、か。

この監獄にいて、それを夢見ないやつは一人もいないだろう。

女三人寄れば姦かしましいというが、囚人が三人寄れば脱獄を考え始めるといってもいい。

だが、奈良監獄から脱獄できた者は、公には一人もいないことになっている。実際はどうなのか、僕らの立場ではわからなかった。

しかし、山岸はどうやって実現するつもりなのだろう?

一人で脱獄を企てるのだって難しいのに、二人では尚更無理だ。誰かと示し合わせて行動をすること自体が困難で、そうでなくとも山岸は普段から隔離されている。

「僕は勝算のないことはしない」

「へえ。俺のやり口じゃ勝算がないって?」

山岸が片眉を上げてもう一歩詰め寄る。

「それって、勝算があるなら脱獄するってことだろ? おとなしそうな顔して、意外と勝負師だよな」

「413号、離れろ!」

僕が答えられずにいると、焦れたように山岸がわざわざ身を屈めて顔を覗き込んでくる。

「413号!」

再び看守が声を荒らげる。

「頼むから、離れてくれ」

僕が小声で哀願すると、山岸は口許を歪めて笑みを作った。獰猛な獣のような表情に、僕は身を竦ませる。

「はいはい。ま、脱獄は無理でも、本のことで質問くらいさせてくれてもいいだろ?」

「421号、どうなんだ」

困惑しきった顔つきの片岡に話しかけられ、僕はちょっと悩んでから頷いた。

山岸は怖かったが、看守に恩を売れる絶好の機会だ。

「では、許可をいただけますか」

「あ、ああ、そうだ。典獄に許可を求めねばならん。413号、返事は」

僕がすぐに結論を出さなくていいようにと配慮をしたのに気づき、片岡は話を無難な方向にまとめた。

「ええ? 今じゃだめなのかよ?」

「我々の一存ではどうにもならん」

「……まあ、いっか。先生、顔を見られてよかったよ」

山岸はにやっと笑い、片岡を無視して自分の監房に戻る。そのまま許しも得ずに房内に入ってしまったので、片岡が慌てて扉を閉めた。

大きな音が廊下に響き、僕は緊張を解いて息を吐き出した。

関連書籍

和泉桂『奈良監獄から脱獄せよ』

数学教師の弓削は冤罪で捕まり、日本初の西洋式監獄である奈良監獄に収監されていた。ある日、殺人と放火の罪で無期懲役刑となった印刷工の羽嶋が収監される。羽嶋も自分と同じく冤罪だったことを知った弓削は、彼とともに脱獄をたくらむ。典獄からの嫌がらせ。看守の暴力で亡くなった友人。奈良監獄を作った先輩からの期待。嵐の夜、ついに脱獄を実行する――。 人気BL作家が描く、究極の友情。

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