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奈良監獄から脱獄せよ

2023.10.24 公開 ポスト

三-7 自由を求めるのは、人として当然の心理だ。和泉桂

時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。

(1話目から読む方はこちらから)

*   *   *

「災難だったな」

「いえ」

囚人を管理するのは、看守の仕事だ。山岸が乱暴な態度を取るのであれば、それは、看守たちの指導が悪いのだ。

独房に足を踏み入れると、がちゃんという重々しい音とともに背後の空気が動いた。

この分厚い扉は、中から開けようにも取っ手がない。開扉のときは、廊下側から鍵を差し込みながらレバーを下げて引っ張ると、重い音を立てて錠が開く仕組みだ。この音が相当うるさく、誰かがドアを開閉しただけで廊下に響き渡るのだ。

特殊な錠前は、すべての監房に共通で、鍵さえあればどの房からでも廊下には出られる。仮に脱獄したければ、外から開けてもらう以外にない。

僕は試しに、閉まった扉を軽く握り拳で叩いてみる。

音がしない程度に殴ったが、それでも痛いものは痛い。あんなことを平然とやってのけた山岸は、やはり、僕とは感覚が違うのだろう。

「……」

とにもかくにも、やっと、一人になれた。

本を読む気も起きず、僕は布団を敷いてその上に腰を下ろす。

今のやり取りで、一気に疲弊してしまった。

「はあ……」

もしかしたら、厄年だったろうか。

人間関係は希薄なほうがいい。誰かと関わるのなんて面倒だ。そういう信条で生きてきたのに、どうしてこんなことになるんだろう。羽嶋といい山岸といい、僕に絡んでくる囚人は個性がありすぎる。

とりわけ山岸の苛烈さは、焔のようだ。

彼はどことなく、僕の祖母を思い起こさせた。

とはいえ、祖母は生涯に一度だけ焚き火で家の大事なものを燃やす程度の慎ましさだったが、山岸ときたら八百屋お七のようだ。自身をも灼やき尽くすのを厭いとわないような凄まじい火焔を纏い、周囲に火の粉を撒き散らす。

仮にここが娑婆なら、僕は山岸はもちろん、羽嶋だって避けて通っていただろう。

ここに来て、僕は嫌というほど『自由』について考えるようになった。

自由とは、何か。進路を自分で決められることが自由だと解釈していたが、それは正解ではない。自由とは、つき合う人間を選べるという意味だ。

そんな単純な定義を、僕はここに来るまで知らなかった。

控訴は失敗したうえ、再審の見込みはない以上、当分のあいだ自由は縁遠いものになる。

刑期の半分を消化しているならともかく、たかだか一割程度だ。一斉減刑があるならば一、二年は減刑されるかもしれないが、それでも十年以上はここに閉じ込められていなくてはならない。

それに、刑期をまっとうして監獄を出るのは一番悔しい事態だ。そうしたって僕の罪が消えたわけではないからだ。

青春の日々を監獄で無為に費やし、挙げ句、犯罪者として娑婆に戻るなんてひどい屈辱だった。

それならいっそ、山岸の言うとおりに脱獄だって考えてみたくなる。

いくら僕が真面目でも、自由を求めるのは人として当然の心理だ。

たとえば『巌窟王』のように、壁に穴を掘り続けるのはどうだろう?

だが、壁の白い漆喰を剥がしても、その下からは堅牢な煉瓦の壁が現れるだけだ。漆喰を削るのはともかく、煉瓦は素手ではどうしようもない。

運よく道具が手に入ったところで、人が通れる穴を掘るには何年かかることか。途中で部屋替えにでもなれば、努力が水の泡だ。

となると、一番手っ取り早いのは、外での作業のときに脱走することだろう。

囚人は安い労働力として、外での肉体労働に従事する機会もあった。労働の内容は、線路や道路などの公共工事や、寺社の清掃など多岐に亘わたる。

また、僕たちの食事に使われる野菜を耕作夫が作っているが、畑は監獄の敷地外にある。その作業のときも狙い目だ。

どの作業も監視の看守が同行するが、何十人もの囚人を一度に監視できるほどの人手は割けない。とはいえ、お揃いの柿色の獄衣では目立つことこのうえないし、実際に逃げ出すのは至難の業だろう。

これが冒険小説だったら、今頃、何か画期的な策が見つかって成功しているはずだ。

そういえば、大学の寮には探偵小説が好きな男がいた。僕らは英国で書かれたコナン・ドイルの小説の訳注書を教材に、一緒に英語を学んだっけ。斑模様の紐が出てくる恐ろしい犯罪。赤毛の男ばかりを集めた犯行計画。普段の僕は小説はあまり読まなかったが、彼の教えてくれたものはどれも面白かった。

今となっては、彼の名前を思い出せない。

部品として管理されることに慣れすぎて、時々、僕は自分がどうしてここにいるのかさえも忘れそうになる。

戻る場所も進む場所もなく、ここで毎日退屈な作業を繰り返し、心を磨り減らしているだけだった。

だが、寧子の手紙が手に入れば、その中身がわかれば、僕は救われるのかもしれない。

それは、深海に射し込んだ一条の光にも似た、ささやかな希望だった。

関連書籍

和泉桂『奈良監獄から脱獄せよ』

数学教師の弓削は冤罪で捕まり、日本初の西洋式監獄である奈良監獄に収監されていた。ある日、殺人と放火の罪で無期懲役刑となった印刷工の羽嶋が収監される。羽嶋も自分と同じく冤罪だったことを知った弓削は、彼とともに脱獄をたくらむ。典獄からの嫌がらせ。看守の暴力で亡くなった友人。奈良監獄を作った先輩からの期待。嵐の夜、ついに脱獄を実行する――。 人気BL作家が描く、究極の友情。

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