自宅マンションに殺人犯が住んでいる? 死体はない、証拠もない、だけど不安が拭えない――。
平凡な日常に生じた一点の染みが、じわじわと広がって心をかき乱す、ミステリー長編『隣人を疑うなかれ』の試し読みをお届けします。
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アシスタントをした週刊連載の最終回が雑誌に掲載され、三週間が経過した。昼夜逆転の生活から解放されて、朝起きて夜寝る生活を送るようになったので、肌や髪にもハリが出てきた気がする。部屋を掃除して、スキンケアもして、気持ちにも、大分ゆとりができた。
今の私は、午前中に近所のおばあさんに呼び鈴を鳴らされても、余裕で対応できるのだ。
私はおばあさんから受け取った『水道管工事のお知らせ』がはさまれた回覧板を持って、一番遠い部屋から順に住人たちのところを回る。幸い、留守がちな住人も今日はタイミングよく在宅していて、スムーズに判子を集めることができた。留守のときは、郵便受けに差し込んでおくのだが、それだといつまで経っても次に回してくれない人もいるので、自分で直接判子をもらうほうが確実だ。
三人に押印してもらい、最後に隣の部屋に住む小崎を訪ねた。
部屋を出る前に顔にパウダーをはたいて、眉を描き、リップを塗っていたが、念のため、インターホンを押す前にスマホのインカメラでおかしなところがないか確認する。彼とはゴミ出しのときなどに顔を合わせて、ボサボサ頭にすっぴんの姿を見られたこともあるので今さらな気もしたけれど、気持ちの問題だ。
小崎は片手にタブレットを持って出てきて、「お疲れ様っす」と回覧板を受け取った。今日は白地に卵かけごはんの絵がプリントされたパーカを着ている。さまざまなバージョンの卵料理の服を持っていて、よそいきはオムライスの柄らしい。以前、「可愛いですね」と声をかけたら、嬉々として説明してくれた。
フリーのライターだという彼は、たぶん、私より二つ三つ年下、二十代半ばくらいで、本人には言えないけれど、小学生のころ、近所で飼われていた犬にちょっと似ている。
「今読んで判子押しちゃうんで、ちょっと待っててもらっていいすか」
「お願いします。小崎さんはいつもすぐつかまるから助かります」
「在宅の仕事っすからね。お互い様っすけど」
小崎はタブレットを小脇に抱え直し、回覧板に目を通し始めた。ちらっと見えたタブレットの画面は、ネットニュースの記事のようだ。「遺体で発見」という見出しが見えた。
このアパートへ引っ越してきて半年ほどしたころ、一階に住んでいる古株の住人女性に、回覧板と一緒に理事長の役目を押しつけられた。
彼女とは、引っ越した直後にクッキーを持って挨拶に行って以来、顔を合わせるたびに言葉を交わすようになり、部屋に招かれてお茶をごちそうになったこともある。随分人懐っこい人だなと思っていたが、今思えば、彼女は最初から、私に狙いをつけていたのだろう。ある程度親しくなったところで、アパートの代表者である理事長を引き継いでほしいと切り出された。
「私なんていつまで元気でいられるかわからないから、そろそろ若い人にバトンタッチしておかないと」
そんな、まだまだお若いじゃないですか、と言ったが無駄だった。彼女は、あらおほほ、とお世辞だけ受けとって、理事長の役目はしっかり私に押しつけた。
理事長を引き継いで最初の回覧板を持っていったとき、私はよほど不本意そうな表情をしていたのか、小崎に「あ、今回から土屋さんが理事長っすか」と気の毒がられた。
「理事長、どれくらいやったら次の人に引き継いでいいんですかね。どうですか小崎さん、次」
私が愚痴っぽく言うと、小崎は回覧板から目を上げないまま苦笑する。
「あー、俺は取材で家を空けてることも結構あるんで……それで、俺じゃなくて土屋さんに白羽の矢が立ったんだと思いますけどね」
似たようなやりとりを、何度したかわからない。
室内に戻って判子をとってきた小崎は、回覧板に紐でとりつけられた朱肉に判子を押しつけ、「回覧済」の欄に押印した。いつも大変すね、とねぎらいの言葉をかけられ、私は反省する。
隣室で年齢も近いうえ、似た業種ということで、小崎にはそれなりに親しみを感じていた。しかし、こうして愚痴ばかり言っていたら、愛想をつかされてしまいかねない。
「理事長って、何するんすか?」
「えっと……アパートの代表みたいな感じで、住んでる人たちから自治会費を集めたり、回覧板を受け取って各世帯に回したり……全員が回覧し終わったら隣のマンションに持っていったりとか」
こうして口に出すと、ねぎらってもらうほど大変でもないように思えてきて、急に恥ずかしくなった。
正直、回覧板はメールでいいし、賃貸アパートで理事長なんて要らないだろとか、いつの時代だよとは思うけれど、こうして住人同士が直接顔を合わせる機会を作ることには、意味があるのかもしれない。
自治会費の徴収やとりまとめといっても、五世帯しか入っていない小さなアパートでは大した負担でもない。年に一度の地域の自治会にアパートの代表者として出席する役目もあるが、私が就任してからはまだ一度も開かれていなかった。
「あ、隣のマンションってあれっすか? あの、ベルファーレ上中。姉貴が住んでるんすよ」
「えっ、そうなんだ」
「結婚してて、苗字は違うんすけど。今立晶って名前です。知ってます?」
「いや、回覧板は管理人さんに渡しておしまいだから、住んでる人は全然……でも、よさそうなマンションですよね。実はちょっと憧れてて」
小崎から、押印済の回覧板を受け取る。他の三世帯の住人にはもう押印してもらっているから、後はこれを隣のマンションの管理人に届けるだけだ。
隣人を疑うかなれ
9月21日刊行の、織守きょうやさんの最新ミステリ長篇『隣人を疑うなかれ』の試し読みをお届けします。