自宅マンションに殺人犯が住んでいる? 死体はない、証拠もない、だけど不安が拭えない――。
平凡な日常に生じた一点の染みが、じわじわと広がって心をかき乱す、ミステリー長編『隣人を疑うなかれ』の試し読みをお届けします。
* * *
「……チョコミントわらび餅?」
ベルファーレ上中五〇二号室の玄関先で、私の持参した手土産を、今立晶は、なんとも言えない不審げな表情で受け取った。
小崎の三つ年上の姉だという彼女は、背が高く、目のキッとした美人で、小崎とはあまり似ていない。声もハスキーで、とっつきにくそうな印象だが、「うちの姉貴元ヤンでちょっと怖そうっすけど、噛みついたりはしないんで」と小崎にあらかじめ言われていたので、心構えができていた。
「おいしいんですよ。癖になる味です。あっ、チョコミント、お嫌いでしたか」
「嫌いじゃないけど、わらび餅は初めてだな……ありがと、食べてみるよ」
あがって、と晶は私と、付き添いとして一緒に来てくれた小崎に一声かけて、部屋の中へと歩き出した。肩まで伸ばしたサラサラの黒髪が揺れる。私が同じ髪型にしても、こんな垢ぬけた感じにはならないだろう。
小崎が先に靴を脱いで、私を目で促した。お邪魔します、と言って私も彼に続く。
いきなり防犯カメラの映像を見せてくれとも言いにくいので、まずは、このマンションに憧れていて中を見たがっている友達がいる、と小崎から晶に話してもらった。いつか住めたらいいとは思っていたので、あながち嘘でもない。彼女は快く、私に部屋を見せることを了承してくれた。
弟が友達を連れてきた、くらいの感覚なのだろう、緊張している風も迷惑そうな様子もなく、気安い態度だ。
「どうする? 先に見て回るか、それとも、まずお茶でも飲む?」
「あ、先に見てから……っすよね?」
「はい。お願いします」
晶は、ん、と鷹揚に頷いた。
「全然好きに見ていいけど、勝手にドアとか開けにくいか。じゃ、案内するからついてきて」
晶はわらび餅を冷蔵庫へしまい、リビング、続きのダイニング、キッチンへ私たちを案内し、窓を開けてベランダを、そしてバス、トイレに寝室のドアも豪快に開け放って見せてくれた。どの部屋もシンプルなインテリアで、すっきりとしている。同じ部屋でも、私が住んだら、仕事の資料や趣味のもので溢れかえって、これほど広々とした印象にはならないだろう。
リビングのソファにあざらしのぬいぐるみがあり、それだけがちょっと意外だなと思っていたら、以前小崎がプレゼントしたものだそうだ。クッションがわりにされているのか、頭部がつぶれて平べったくなっていた。
「間取りはこんな感じ。うちは2LDKだけど、3LDKの部屋も1DKの部屋もあるそうだから、今空いてるのがどのタイプかは、ちょっとわかんねえけど」
全部屋を回り、最初に見たリビングへと戻ってきて、晶が言った。
「上の階に友達が住んでるから、見たかったらそっちの部屋も見せてもらえると思うけど、そこも間取りは同じだからなあ。1DKとか3LDKも見たい?」
「あっいえ、大丈夫です。だいたいの感じはわかりましたし、実際に借りられるようになったら内覧希望を出しますから」
「そっか。エレベーターホールとか共用部分も見る?」
「あ、それくらいだったら俺が案内するし、さっきざっと見てきたから」
小崎の言葉に、私も頷く。
五〇二号室に来る前に小崎と二人で確認したが、正面玄関に一つ、裏口へと続く駐車場の入り口にも一つ、防犯カメラが設置されていた。建物へ入る裏口自体にはカメラがないが、あの夜、私が目撃した彼女は、駐車場の入り口から、駐輪場の前を通って敷地に入っていった。防犯カメラには写っているはずだ。
今日の目的は、駐車場の入り口に設置された防犯カメラの映像を見せてもらうことだった。
「じゃ、お茶にするか。酒饅頭もあるし。優哉が出張土産に買ってきたやつ」
優哉くんって、姉貴の旦那さんね、と小崎が小声で教えてくれる。
その後、晶が、キッチンでお茶を淹れてくれた。
ちらっと見えた黒い湯沸かしポットは、有名なメーカーの高級品だ。
それ、かっこいいですね、と私が言うと、会社の忘年会のビンゴで当たったのだと教えてくれた。彼女自身は、あまりこだわりはなさそうだ。自然体で気取らない感じで、学生時代は、さぞかし同性の後輩に慕われただろうな、と思わせる雰囲気がある。小崎は「元ヤン」と言っていたが、むしろ、運動部のエース、頼れる先輩、というイメージだ。
湯呑みと一緒に箱ごと出された酒饅頭を見つめて、カメラのことをどう切り出そうかと考えていたら、何を勘違いされたのか、チョコミントわらび餅は後で食べるから、と言われてしまった。
「あ、いえ、あれは日本茶と合わせる感じの食べ物じゃないので……お饅頭、いただきますね」
慌てて顔を上げて言った。
「いいマンションですよね。駐車場も駐輪場もあって。今回初めてエレベーターに乗りました。回覧板を届けに、一階の管理人室まで来たことはあったんですけど」
小さめの酒饅頭を箱から取って、二つに割って一口食べ、お茶を飲む。お茶は熱く、かなり濃いめだったが、小崎も晶も平気で飲んでいるので、彼らの家ではこれが当たり前なのだろう。夜飲んだら眠れなくなりそうなお茶だったが、甘いものには合っていた。
「こちらの住人の方とは、ほとんど面識がないんです。晶さんとも、お会いするのは初めてだし……ゴミ出しのときとか、顔を合わせていてもおかしくないのに」
「ああ、うちはゴミ出しの時間、自由だからな。一階にゴミ置き場があって、曜日とか時間関係なく出していいことになってるんだ。それを管理人さんが、収集日にまとめて出してくれてる」
「えっすごい、それいいですね! ゴミ出し自由、いいなあ! 私、不規則な仕事で、朝起きて収集時間までにゴミ出すのがほんと大変で……」
夜の間にゴミを出すのはマナー違反だと知ってはいるけれど、収集車が来る朝八時半という時刻は、仕事を終えてようやくベッドに入り、ちょうど眠りが深くなるあたりだ。だからせめて、そろそろ夜明け、ぎりぎり朝と言えなくもない、というような時間にゴミを出して、それから寝るようにしていた。ここ最近はもっと早く就寝できているのだけど、それでも、夜更かしをする癖がついてしまっているので、朝八時半までに起きてゴミを出すのはちょっとつらい。
晶は、漫画家なんだっけ? 大変だな、と言って、まだ熱いはずのお茶をすすった。
隣人を疑うかなれ
9月21日刊行の、織守きょうやさんの最新ミステリ長篇『隣人を疑うなかれ』の試し読みをお届けします。