遺伝子をはじめとした生命科学の研究が医学の進化を後押しする時代。遺伝を知ることは誰にとっても必須の知識だとおっしゃる生命科学者の仲野徹さんが『遺伝子が私の才能も病気も決めているの?』の感想をご寄稿くださいました。
生命科学者も驚嘆のわかりやすさ
「おそれいりました」
一気に読み終えた時、上大岡トメさんが住んでおられる方角に向かい頭を垂れ、思わずつぶやいてしまった。あまりにうまく書けているではないか。
昨年の3月に定年で引退して今は隠居生活に突入しているが、それまでの40年近くは生命科学の研究にいそしんでいた。そのかたわら、ベストセラーになった(←自分で言うな!)『こわいもの知らずの病理学講義』(晶文社)をはじめ、医学や生命科学についての啓蒙書を何冊か出してきた。
ちょっとえらそうな物言いになるが、その動機は、一般の人たちの生命科学や医学についての知識――あるいはリテラシーと言ったほうがいいかもしれない――が、あまりに低いからだ。ある程度以上の年齢の人にとって、いたしかたのないことではある。10年ほど前から大きく変わったが、それ以前は、遺伝子を含む生命科学のことなど、高校の生物学であまり教えられていなかったからだ。
知らなくても困らない、と思う人もおられるかもしれない。しかし、今や時代が時代だ。生命科学が、そしてそれに伴って医学が、大きく進歩してきた。病気になってお医者さんに説明を聞いても、医学や生命科学のリテラシーが低ければ、何を言われているのかわからない。だから学ばねばならないのだ。
こんな考えから、啓蒙書を出すだけでなく、講演やエッセイなどでも、そういったリテラシーを身につけてくださいね、と言い続けていた。しかし残念ながら、多くの人にとってはとっつきにくいのか、なかなか意識は高まりそうにない。で、最初にもどる。どうして「おそれいりました」とつぶやいたか、である。
この本、なにしろわかりやすい。理由はふたつ。まずひとつめはマンガであること。もちろん、なんでもかんでもマンガにすればわかりやすいというものではない。しかし、あることのイメージをつかむためにマンガはとても優れている。ただ、少し困った点がありもする。
CMとかで「イメージです」と書いてあると、リアルとはすこし違ってたらゴメンね、という意味合いが込められている。マンガによるイメージも似たところがあって、厳密に表すことができているかというと、そうでもない場合がままある。だが、この本は正確さを限りなく損なわず、うまくイラスト化できている。本の半ばくらいの小さなコマで思わず吹き出した。
編集者さん(らしき人) 「こういうののビジュアル化はうまいですね」
トメさん 「イラストレーターですから」
編集者さん(らしき人)のちょっと無礼な発言とトメさんの自負、本当に交わされた対話やったらおもろすぎる。
自分では描けないのだから、イラストにおそれいりはするが、降参などしない。不戦敗というか、そもそも同じ土俵にのぼれないのだから戦う意志すらわかない。しかし、ふたつめの理由には、おそれいりすぎた。それは、この本のストーリー性である。
『遺伝子が私の才能も病気も決めているの?』というタイトルなのだから、当然、遺伝子についての本である。私のような学者あがりが書くとなると、どうしても、まず、遺伝子とは?とかDNAとは?とかいう話から始めてしまう。たぶんそれがあかんのや。きっと、その段階でギブアップしてしまう読者が多いんや。この本は違う。最初にすこし遺伝子検査の話が出てくるが、つぎは免疫の話に突入する。
ちょっと本題からそれてるがな、大丈夫か、と思ったのはあかさたな、じゃなくて、あさはかなことだった。説明がうまいっ!たとえば、胸腺という臓器での、リンパ球の一種であるT細胞の「教育」というのはすごく複雑なのだが、快刀乱麻のように説明されている。ほぉ~、感心、おもろいやん。と思っているうちに、すでに本の三分の一くらい。つかみは十分、いよいよ遺伝子の話へと突入だ。
いきなり「遺伝子とDNAの違いってなに?」という大きなテーマが提示される。このふたつ、テレビCMなどでは同じように扱われたりしているが、概念はまったく違う。というのは、DNAはデオキシリボ核酸という物質の化学名称であり、遺伝子とはタンパク質をコードする単位の概念なのである。とか言うてしまうのが、専門家のあかんところですわな。細かく説明するとちょっとややこしいけど、そのあたりも誰にでもわかるように説明されている。
こういった内容が、トメさんを主人公にした物語として進められていく。登場人物は、元医師で好奇心旺盛なアンさん(83歳)と、二人の孫、一卵性双生児の女性であるルカとカイである。
この設定が抜群だ。一卵性双生児は遺伝的には完全に同じであるけれど、その表現型は異なっている。あ、あかん、また出てしもた専門用語。表現型というのは遺伝型に対する言葉で、ひらたくはなんていうたらええんやろ、人間やったら、その人の持っている性質とか特徴といったところかな。
一卵性双生児を登場させることによって、遺伝だけですべてが決まってるという訳ではありませんよ、ということがすんなり頭に入ってくる。その理由のひとつは「エピジェネティクス」という生命現象なのだが、これまた説明が難しい。どれくらい難しいかというと、みんなに知ってもらうために『エピジェネティクス 新しい生命像をえがく』(岩波新書)を一冊書いたくらいに難しい。もちろんトメさんは、そのエッセンスも上手に説明しておられる。
ほかにも、遺伝子の突然変異とガンの関係、生活習慣病やアルツハイマー病の原因、ウイルスのDNAや遺伝子の話など、盛りだくさんのトピックスがすべて、簡潔にわかりやすく、そして正しく説明されていく。そして最後の言葉が素晴らしい。
「こうして生きているだけで奇跡――今の自分自身を大事に 命を大切に」
そんなことあたりまえやん、今さら言われなくてもわかるわ。と、思われるかもしれない。しかし、この本を読めば、今よりもはるかに深い意味でこの言葉を噛みしめるようになるはずだ。それも遺伝子リテラシーを身につけた上で。いや、ほんまにおそれいりましたわ。
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詳しくは、『遺伝子が私の病気も才能も決めているの?』をご覧ください。