時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。
(1話目から読む方はこちらから)
* * *
四
「先生、またここにいたんですね」
黒いくりくりとした目が特徴的な彼女は、僕をじっと見つめている。
小笠原寧子。
僕が受け持つクラスの生徒で、数学には熱意を持って取り組んでいる。
そのせいで、僕は彼女を特に覚えていた。
寧子は解れた前髪を直し、不思議そうに頭上に目を向ける。
「あの子、何の鳥かわかりましたか?」
「さあ」
僕は鳥の種類には興味がなかった。ただ、一度見つけた親子の営みを、何となく見つめたくなってしまっただけだ。
いくら食物連鎖とはいえ、このあたりを根城にする大きな鴉に彼らが狙われているのが、どこか痛ましかったからかもしれない。それで、僕の目の届くあいだは彼らを見守ろうと考えたのだ。
「また見に来ていいですか?」
「小鳥は僕のものじゃないので」
僕の答えを聞いた寧子はぽっと頬を染めて、嬉しそうな面持ちになった。
やっぱり、つぐみに似ている。
長い前髪が時々顔にかかって目許を隠してしまうところが、つぐみの模様を思い起こさせるのだ。それに、その黒目がちの目も小鳥を想起させる。
つぐみは渡り鳥で、冬だけ北の国から訪れるという。そう教えてくれたのは大学時代の友人で、言われてみれば春や夏には見かけなかった。
ややあって、僕は鳥の巣を見つめるのにも飽きて踵を返した。
「さようなら」
彼女が声をかけてきたので、僕は「早く帰りなさい」とだけ言って足早に職員室へ向かった。
翌日の授業計画を練るのは、僕にとっては楽しい日課だった。
花嫁学校では数学の世界にともに没頭してくれる生徒など望めないが、好きな数学で生計を立てられるだけで満足だった。
寧子の父親は有力な市議会議員で、彼女はお嬢様だ。婚約者がいるとも聞いている。
僕はそれを知っていたので、寧子との会話も最低限に止めていた。女学校に若い男性教諭がいるだけでも、色眼鏡で見られるご時世だ。良家の子女と妙な関わりを持って、痛くもない腹を探られるのは不愉快だった。
だからこそ、寧子に対してもほかの生徒と差はつけなかった。僕と彼女のあいだには雛を見守るという共通点があったが、逆に言えばそれだけだ。
それだけの関係ならば、誰にも咎められることはない。
けれども、人の心の中で感情がどう育つかは僕には想像できなかった。
想像できていたら、何かが変わっていたのだろうか。
寧子、君は──。
「できました!」
しんと静まり返った作業場に、今日も羽嶋の元気な声が響き渡る。
「おいおい、何度目だよ」
誰かが茶々を入れたので、皆が声を立てて笑った。
だが、片岡が咳払いしたので、すぐにそれは掻き消える。
羽嶋の「できました」はこれが初めてではなかったので、皆が失笑する気持ちは僕にもわかった。
無論それは彼が悪いのではなく、羽嶋が素直なだけだ。
僕のようなひねた人間とは、最初から違う。
普通ならどこかで萎れたりへこんだりする時期があるはずだが、羽嶋は相変わらずの陽気さで、彼を対象にした賭けは成り立たなかったらしい。
おまけに、彼は可愛げのあるやつとしての地位を確立し、つまはじきにもされない。
羽嶋の馬鹿正直な気質を見せつけられ、居心地が悪くなる悪党もいるだろうに。
「どうですか、これ」
糸を切る前であれば何度もやり直せるので、僕は慎重に羽嶋の作った羽織紐を検分した。ところどころいびつさは残っているが、これならば売り物になる。
「いいと思う」
長かった……。
僕は安堵の感情とともに、ふうっと息を吐き出した。
羽嶋は手先は器用だが、妙なところで凝り性で、何度も糸を解いてはやり直した。指導を早く終わらせたかったものの、向上心を阻むのは教師としては悪手だ。僕としては、あの小鳥の巣のように彼を見守るほかなかった。
「ありがとう、弓削さん!」
421号だと訂正するのも今更無駄なように思えて、僕は頷いた。
「ああ」
「やっとできたのか。センセイも苦労するな」
近づいてきた片岡が羽嶋の組み紐を一瞥し、にやりと笑う。
「片岡さん、ありがとうございます!」
素直な礼の言葉に、片岡は戸惑ったように鼻を鳴らした。
「片岡殿、だろう」
僕が指摘すると、羽嶋は「あ」と口許を押さえた。片岡はそんなことは気にしていない様子で、自分の席に戻って椅子にどかりと座り込む。
「じゃあ、最後に仕上げだ」
「ええっ!? まだあるんですか!?」
途端に羽嶋が情けない声を出した。
「編みっぱなしで商品になるわけがないだろう。端を房にするし、そもそも二本一組だからまだ半分だ」
「房って、どうやって?」
「編んだ部分を少し解く。今から教えるよ」
「そうなんだ……縒ったり解いたり、忙しいですねえ」
作業を止めた僕は羽嶋の丸台に近づくと、余分な糸を処理してから解き方を教えてやった。
とにかく、これで羽嶋が巣立ってくれる。
「421号さんは、誰からこれを習ったんですか?」
「あいな……ここの生き字引みたいな人だよ」
「へえ、会ってみたいです」
相槌を打ちつつも羽嶋が複雑な表情に変わったのは、僕が相内を名前で呼んでいるのに気づいたせいかもしれない。
名前を口にした途端、あのご老体が懐かしくなった。
もう枯れてしまったような老人だし、僕とは相容れないはずの犯罪者だ。それでも僕にとっての恩人で、この監獄で真っ先に名前を覚えた相手だ。
その次は山岸で、羽嶋が三人目。
三人ともそれぞれ個性的で、彼らに比べると自分はしみじみと平凡だ。
奈良監獄から脱獄せよ
8月23日刊行の、和泉桂さん初めての一般文芸作品『奈良監獄から脱獄せよ』の試し読みをお届けします。
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