時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。
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* * *
仕上げの作業を始めて、三十分ほど経っただろうか。
「これでどうですか?」
羽嶋から手渡されたものを再び検品し、僕は頷いた。初めての作品なので一流とはいかないが、それなりに値段はつくだろう。少なくとも、はねものにはならない水準だ。
「うん、いいよ。まずは一本完成だな」
「やっぱり、教え方上手いですね」
「褒めなくていいから、次だ。本数をこなしたほうが成績が上がる」
「はい!」
嬉しげに目を細め、羽嶋が自分の作り上げた羽織紐を撫でる。
それから彼は「よし」と言うと、糸束を手に取った。
しばらく作業に没頭していた僕が再び彼の手許を見ると、羽嶋は比較的順調に組み玉を作り始めていた。これなら、もう教えることはなさそうだ。
久しぶりの静謐が僕には心地よく、同時に、少し物足りなかった。
昼食の時間になり、僕は自分の麦飯と味噌汁を受け取った。隣の席には、やはり、羽嶋が座っている。
「喫食!」
合図とともに食事を始めた僕は、相変わらず豪快に味噌汁を呷る羽嶋に目を向けた。
毎日毎日、彼はこの調子で味噌汁を一滴残らず飲み干すのだ。
指導が最後であれば、一緒に食事を摂とる機会もなくなるから、ここは一度聞いてみたい。
「……あのさ」
「はい?」
「砂、平気なのか?」
「砂?」
羽嶋はまったく気に留めていない様子で首を傾げた。
「砂だよ。お椀の底に溜まってるだろう。食べてて気づかないのか?」
「あ、えっと、ええ。じゃりじゃりしてますね。これ、砂だったのか」
怪訝そうな素振りのまま彼はもぐもぐと口を動かし、ごくりと飲み込んでから口を開いた。
「慣れてるんで。まあ、いずれ身からだ体からも出ていくし」
やはり、異物が入っていることは認識していたようだ。それでも平気だという言葉に、僕は愕然とする。
「慣れていても、腹を壊すだろう。周りも心配する」
「周りって?」
慣用表現だったが、確かに、同じ雑居房の囚人が羽嶋を案ずるかは疑問だった。
「その……君のご家族だ。病気になれば連絡がいく」
「そんなの、いませんよ。それに、生まれつきどこもかしこも丈夫なんで」
「そうか」
世間話のようにごまかそうとして、かえって踏み込んだことを聞く羽目になってしまった。
だとしたら、このあいだ面会に来ていたのは誰なのだろう?
「君は、もっと自分を大切にすべきだ」
「え」
羽嶋はきょとんとして、まじまじと僕を見つめる。
「どうして?」
「どうしてって……せっかく生きているのに。こんなところで病気になって、早死にするのも悔しいじゃないか」
「どうせ、無期だし。早死にしたっていいですよ」
それについては気安く相槌を打てず、僕は困ってしまって視線を落とした。こういうときの上手い言葉を考えるのは、僕には不得手な課題だ。
「ありがとうございます」
出し抜けに羽嶋が礼を告げたので、僕は顔を上げる。
「……なに?」
「気にかけてもらえて、嬉しいです」
「違う。これは……ただの野次馬根性だ」
「でも、嬉しいですよ」
にこにこと笑う羽嶋が不気味で、僕は「わからないな」とぼやいた。
「わからなくて、いいです。俺が勝手に嬉しいだけだから」
本当に、意味がわからない。
羽嶋はいったい、どういう人間なんだろう?
終身刑なのだから、大きな罪を犯したのは間違いがない。そのうちに噂は回ってくるかもしれないが、僕はいつしか彼の罪状に興味を覚えていた。
羽嶋はどんな鮮やかな焔を燃やし、ここまでやって来たのか。
──だめだ。
僕にだってささやかな好奇心はあるが、ここで発揮するのは禁物だ。山岸のように下手に懐かれても困るし、逆に嫌われて厄介ごとの種になるのもまずい。
いずれにしても、羽嶋との師弟関係も今日でおしまいだ。
明日からはまた静かな日々が戻ってくる。それが待ち遠しかった。
監獄の地下に向かう階段は一段一段が狭く、一人しか通れないようになっている。左右の壁が迫って圧迫感があり、体格のいい人間は難儀するだろう。人が殺到したら将棋倒しになるようなこうした構造も、脱獄や暴動対策に違いなかった。
「ふう……」
辿り着いた先は半地下で、昼間なのに薄暗い。特にこの時期は陽射しが届かないせいで一際寒く、構造的にも半分は外なので、吐き出す息が真っ白だ。
ここには主に水回りが配され、広々とした炊事場と洗濯場、囚人が交代で使う浴場などがあった。壁は独房と同じで煉瓦の上から漆喰が塗られているが、ところどころ剥げてしまっている。
本来ならば日中は作業に従事しているはずなのに、僕がこんなところにいるのは理由がある。
朝一でやって来た看守に、工場に行かずに掃除夫代理を務めるようにと伝えられたのだ。
監獄でも冬から春にかけて断続的に風邪が流行し、今回は炊事夫と掃除夫が集団で感染したそうだ。
彼らがいないと囚人の生活が成り立たないので、急遽、何人か補充することになり、僕が選ばれたのだ。
羽嶋の指導が終わったばかりで、やっと自分の作業に集中できると思ったのだが、拒否する権利はないので致し方ない。
「あれっ、弓削さん」
薄暗い地下空間の入り口で僕を呼び止めたのは、目を丸くした羽嶋だった。
次の瞬間、彼の顔がぱっと輝いた。
「どうしてここに?」
「風邪が流行ってるから、掃除夫が足りないって」
「おい、421号」
見慣れない看守が近づいてきて、僕を見てにやにやと笑いを浮かべる。
「センセイなんだから、きちっと指導してやれよ。せっかくおまえの生徒にも声をかけてやったんだからな」
揶揄の入り混じった言葉に、ほかの掃除夫から低い笑いが漏れる。そんな中で、羽嶋だけが神妙な面持ちだった。
奈良監獄から脱獄せよ
8月23日刊行の、和泉桂さん初めての一般文芸作品『奈良監獄から脱獄せよ』の試し読みをお届けします。
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