時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。
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* * *
「わざわざ、僕たちを選んだってことですか?」
聞き返した瞬間、頬に熱いものが走った。
「ッ」
「弓削さん!」
看守に平手打ちされたのだと認識するまで、数秒を要した。
羽嶋が声を上げたので、僕はそちらのほうに驚いてしまう。
「私語は慎め!」
「……はい」
看守が怒ったのは、図星だからだろうか。
四監上工場で、僕は毎月上位に入る成績優秀者だ。
工場同士で売り上げを競っている中では、成績優秀者を外すのは得策ではない。一位になれば看守にも褒美が出るはずだから、僕が作業に参加できないのは損失に繋がる。掃除夫の補充員を無作為に選んだならば仕方ないが、何となく納得がいかない。
だが、それはまだいい。
問題は、僕と羽嶋を組ませたことだ。
四監だけで、百人以上いるのだ。僕と羽嶋が二人組になるのは奇蹟のような確率だ。裏に作為があると疑うのは、考えすぎではないだろう。
そうでなくとも、羽嶋はやっと組み紐編みを覚えたばかりだ。ここで別の仕事をさせればせっかく学んだ内容だって忘れかねないのだから、片岡だって多少は配慮をするはずだ。
なのに、どうして僕と羽嶋を選んだのだろう。
あと十八年も刑期が残っているんだから、終身刑の羽嶋と二人で仲良くやれという配慮か。
もしくは、羽嶋のお目付役として見込まれてしまい、もっと教育してやれという圧力なのかもしれない。
直感的に、僕はこの巡り合わせに疑念を抱いていた。もしこれが小説だったら、探偵はいろいろと推理を巡らせるに違いない。
「……」
たとえば、僕を個人的に監視するためというのはどうだろう。
その動機を持つのは、小笠原だ。
理由はもちろん、嫌がらせだ。ほかの囚人に僕の動向を見張らせ、粗を探して恩赦や減刑の道を徹底的に阻むための。看守を仲間に引き込めば、囚人の手配や情報収集は代行してくれるだろう。
引き受ける囚人にしても、監視程度ならば発覚しても咎められないから、なり手はごまんといるはずだ。
そして長い時間をかけて、僕を更に苦しめるための証拠を集める──こういう筋立てだったら、羽嶋が僕に接近してくるのに意味を見出せる。
現実はもっと複雑だと思っていたが、案外、世界はこれくらい単純なのかもしれない……。
「弓削さん?」
羽嶋に問われ、考えごとに耽っていた僕ははっと顔を向ける。
「!」
「ぼんやりして、大丈夫ですか? 俺たちは個人用って。それ、どこですか?」
にこやかに白い歯を見せる羽嶋の態度は、普段と変わらない。
そうだ。少しばかり彼の接近が不自然だったとしても、羽嶋がそんな後ろめたいことを承諾するとは思えない。
想像というより、妄想だ。自分から不安の種を作り出すなんて、僕もどうかしている。
「こっちだ」
娑婆でも風呂に毎日入るわけではなく、監獄では当然、もっと少ない。冬場の風呂は一週間から十日に一度だ。新入りの羽嶋がまだ風呂に入ったことがなくても、おかしくはなかった。
道具入れから風呂掃除のための道具を出し、それを床に置いた。
「束子で浴槽を洗って、水を汲んで沸かすんだ」
「はい」
この浴槽は皮膚病などの囚人のための特別なもので、仕切りを設けて一人用の狭い浴槽を作っている。床はコンクリート製で、垢でざらついていた。僕は浴槽を水で流すと束子を取り上げ、無言で汚れた内壁をこすった。
「おまえら、さっさとやれよ。このあとは便所だからな」
看守が張り上げた声が、地下の空間で反響する。
羽嶋は静かに掃除しているようだが、終わったのだろうか。
僕は一度立ち上がると、腰を軽く叩く。浴槽を乗り越えて濡れた床に下り、隣を覗いた。
羽嶋は浴槽の手前で、こちらに背を向けて立っていた。誰もが同じ柿色の着物を着ているが、その背中はなぜか声をかけづらかった。
僕の中で、先ほどのくだらない妄想が渦巻いていたからかもしれない。
「ん?」
視線に気づいたのか、羽嶋がいきなり振り返った。
気まずさにびくっと反応したせいで、足がずるりと滑る。
「ッ」
ぐらりと身体が前に傾ぎ、両手が泳ぐ。
「うわっ」
掴めるものがないうえ勢いは止まらず、気づくと僕は羽嶋に激突していた。
「いたた……」
「ってえ……」
僕の下で、尻しり餅もちを突いた羽嶋が呻いた。
「大丈夫か?」
僕は急いで立ち上がる。
羽嶋は痛そうに顔をしかめていたが、こちらを真っ直ぐに見上げて「怪我、なかったですか?」と聞いてくる。
「たぶん、ないよ。君を下敷きにしたから」
「よかった。弓削さん、俺なんかよりずっと細いし」
「すまない」
ここで番号で呼べと主張するのは、助けてもらったのにさすがに可愛げがないだろう。
それに、いちいち訂正するのも面倒だ。呼び方については、もう諦めたほうがよさそうだ。
「ありがとうのほうが、いいです」
「え?」
何を言われているのかわからず、僕はぽかんと口を開けて相手を見つめてしまう。
少しはにかんだように、羽嶋は目を細めた。
「おおきに、でもいいけど」
礼を要求されているのだと認識し、僕は困惑しつつも口を開いた。
「……ありがとう」
「はい!」
謝られるよりも、礼が嬉しいのか。
それはそうかもしれないが、言葉にされると、やけに新鮮だった。
四文字と五文字の差にすぎないけれど、羽嶋には意味がある違いなのだろう。
「あ、何か用事があったんですか?」
そこでようやく気づいたように問われ、僕はやっと自分の用件を思い出した。
「さっさと終わらせようと言いたかったんだ」
「はい」
羽嶋がこくりと頷いた。
奈良監獄から脱獄せよ
8月23日刊行の、和泉桂さん初めての一般文芸作品『奈良監獄から脱獄せよ』の試し読みをお届けします。
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