時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。
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* * *
あちこちを掃除してへとへとになった僕たちへのご褒美は、久しぶりの入浴だった。
脱衣場には、〇から九までの番号を振った脱衣籠が用意されている。
号令で服を脱いで裸になり、称呼番号の末尾の数字が一致する籠に自分の衣類を入れる。
濃淡はあるが僕たちの衣類はほぼすべてが柿色で、ふんどしや手ぬぐいに至るまで同じ色だった。
羽嶋は僕よりも一足先に番号を呼ばれ、嬉しそうに浴場へ向かった。
「センセイ」
声をかけられてぎょっとしてしまったのは、前だけ申し訳程度に隠した山岸がいたからだった。山岸は筋肉質で、ひょろひょろの僕とは大違いだ。
「元気そうだな」
「どうも」
僕の様子など意に介さず、山岸は不遜な態度のままだ。
「新入りの指導は終わったんだろ。俺の頼みはどうなってんだよ」
どうやら、山岸に僕の情報を漏らしている輩がいるらしい。この監獄にも情報屋のたぐいがいるので、特に不思議でもなかったが。
「典獄の許可が下りていないんだ」
そういえば、本について教えてほしいなどと言われた記憶がある。山岸といつも顔を合わせるわけではないので、すっかり忘れていた。
「何を読んでるんだ?」
「『致知啓蒙』」
音を漢字に変換するまで、わずかな時間が必要だった。
「西周だっけ。僕にわかるかどうか……」
「知ってんなら話が早い。先生の説明が聞きたいんだよ」
「私物の交換は禁じられている」
「お堅いねえ」
「それが決まりだ」
書籍に符牒やら何やらを書き込んで交換すれば、囚人たちも大規模な蜂起や脱獄を企てられるかもしれない。看守たちは、囚人の持つさまざまな可能性の芽を摘むことに骨を折っているのだ。
「次、入れ! 413号!」
「おっと、俺か」
山岸は上機嫌になり、「またな」と言い残し、大股で浴槽へ向かう。
その威圧感から解放され、僕はほっと息を吐き出した。
「大将殿は、相変わらず怖いねえ」
「何、言ってんのかわかんねえし。チチチチって小鳥の鳴き声か?」
「馬鹿」
順番を待って並ぶほかの囚人たちが、声を潜めて山岸の噂を始めた。あまり声高に話すと注意されるので、そのあたりは皆、心得たものだ。
「そういや、今日は、あの新入りも来てなかったよな」
「新入りって雑居房のやつだよな? 妙に懐っこいけど、あいつ、何したんだ?」
彼らの話題は自然と羽嶋のことになった。聞き耳を立てるのは下品だが、羽嶋について知りたかったので、つい、そちらに神経を集中させてしまう。
「知らねえの? 殺しだよ」
「へえ。男前だし、痴情のもつれってやつかい」
「いや、強殺に火付けだ。あいつ、のんきな顔して終身刑だぜ」
強殺、要するに強盗殺人だ。そのうえ放火。終身刑になるほどの重罪だろうかという驚きはあったが、そのくらい悪質な犯行なのかもしれない。
「とんでもねえな」
「詳しい話は亀田に聞いたんだけどよ」
亀田とは、情報通で知られる囚人の一人だ。
彼は共産主義の思想犯で早いうちに転向したが、仲間を売ったせいで恨まれており、軽微な罪なのにここにいるというもっぱらの噂だ。
どこからどう聞き出すのか、亀田はさまざまな情報を持っている。ここではものが流通しないので、かたちのないもの──つまり情報の価値が高い。僕の経歴も、彼が噂を流したのだろうと睨んでいる。情報の見返りは差し入れのお裾分けや、ほかの情報だったりするらしい。
情報というのは、意外と侮れない。
囚人の人間関係にも大きな影響を与えるし、出獄してからの身の振り方を考える際に使える場合だってある。
同じ四監にいても、作業内容が違う亀田と顔を合わせる機会は運動の時間くらいだ。
何か話せば弱みを握られそうで、会釈したことしかない。
「猿沢池の近くに印刷所があるだろ」
「そうだっけ?」
「そこの社長が被害者。何でも、やつは社長に拾われて、何年も居候してたって話だぜ? そ
れがある日、婿養子が家の二階から隣の工場の庭を見たら、真っ昼間から二人が揉み合ってたってさ。それで、止める間もなく出刃でグサッ」
「ひでえなあ……そいつはあんまりにも恩知らずじゃねえか」
「だろ。しかもそのあとは火付けだぜ。人は見かけによらないってもんだ」
工場の隣に二階建ての自宅があるなら、そこから見えることくらい気づいているはずだ。それすら思い至らないくらいの場当たり的な犯行だったのか。
しかし、逆に、印刷所に出刃包丁を持ち込むのは計画性を感じさせる。
計画性も殺意もあると見なされての無期刑だろうが、周りをまったく確かめないで人を殺すのは雑すぎる。
仮に羽嶋が僕の祖母のようなタイプだったならば、衝動に駆られてやってしまったのかもし
れない。
「次、入れ!」
服を脱いだ僕は身体を洗い、手早く頭から湯を被る。浴槽に身を沈め、天井を見やる。
自分の身体に纏わりつく湯が、ぬめった血のように思えてぎょっとする。
──何なんだ、これは。
喉の奥で、何かがつかえているような不快感。
何度か唾を飲んでみたが、それは消えなかった。
「……」
羽嶋のせいだ。
僕は彼に失望しているんだ。
もしかしたら、いつの間にか僕は羽嶋に期待していたのかもしれない。
彼とならば、親しくなってもいいのではないかと。
そうでなくては、監獄暮らしはあまりにも苦しい。
誰ともわかり合えず、誰とも馴れ合えない。
それをよしとしているくせに、時々、どうしようもなく淋しく、孤独に打ちのめされることがある。
いっそ、僕も罪人になり切って、ほかの囚人たちと馴れ合えればどれほどよかっただろう。そのほうが、よほど楽じゃないのか。
けれども、僕が僕でいるためには、罪を認めることだけはできない。
やってもいないことを、やったと言わされるのは我慢ならなかった。
奈良監獄から脱獄せよ
8月23日刊行の、和泉桂さん初めての一般文芸作品『奈良監獄から脱獄せよ』の試し読みをお届けします。
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