時は大正。舞台は日本で最も美しい監獄。言われのない罪で監獄に投獄された数学教師と印刷工が、頭脳と胆力で脱獄を目指すバディ小説、『奈良監獄から脱獄せよ』の、試し読みをお届けします。
(1話目から読む方はこちらから)
* * *
●奈良の人殺し
十四日午後一時頃、奈良県奈良市の印刷所経営徳永豊太郎氏(五十九)が出刃包丁で斬られ、工場の庭で血塗れで倒れたるを娘婿の徳永次郎(三十)に発見さる。被害者は庭で絶命し、その後印刷所より出火し工場及び隣接する自宅が全焼せり。自宅の二階で一部始終を見てゐた次郎の証言により、加害者は羽嶋亮吾(二十一)と断定、警察は逃走中の犯人確保に努めてゐる(奈良電話)
●奈良の社長殺し続報
十四日に奈良県奈良市の印刷所経営徳永豊太郎氏(五十九)が殺害され印刷所と自宅に放火されし事件で、警察は逃走せし羽嶋亮吾(二十一)をつひに逮捕したる。羽嶋は徳永氏に三年間世話になりしも、卑劣な犯行に及びたり(奈良電話)
新聞の記事を読むと、この殺人犯はなんて非道な人物なのかと思うだろう。
羽嶋はかな以外は覚束なかったので、内容は弁護士が読み聞かせてくれた。
「何の力にもなれなくてすまない」
残念そうに弁護士の児平に謝られて、羽嶋は首を横に振る。
「いいんです。俺の話、信じてもらえただけで嬉しかったです」
「あたりまえだ。たった一人の目撃証言だけで、有罪にされるなんて……しかも無期だなんて馬鹿げている。それどころか、ハツ子こさんが何かの間違いだと信じてると言ってくれなければ、死刑だったんですよ」
児平はまだ若く駆けだしだと話していたが、熱意がひしひしと感じられた。
何とかならないか、必死で模索してくれていた様子は羽嶋にも窺える。
「とても悔しい。こんなことがあるなんて。冤罪なんて、裁判制度の恥だ。司法国家としての欠陥だ」
「仕方ないですよ」
「でも、再審請求を棄却されるなんておかしい! これじゃ、あなたの前途は真っ暗だ」
怒りと興奮のためか、児平の顔は真っ赤だった。
「私は、徳永さん……娘婿の次郎さんの証言はどうしても信じられない」
被害者も目撃者も徳永なので、弁護士は下の名前で呼んだ。
「だけど、あの人が俺を嵌めるとは思えないんです」
被害者の名は、徳永豊太郎。
目撃者の徳永次郎は豊太郎の娘であるハツ子の夫で、羽嶋が勤め始めたときからの先輩だ。彼は事務を担当していたので工場での仕事は教わらなかったが、折に触れて気さくに声をかけてくれた。
もともと、羽嶋は奈良とは縁もゆかりもない。
羽嶋が育ったのは、東京でも猥雑さと貧困を煮詰めたような町だった。
実家はそれなりに裕福だったらしい。それは羽嶋亮吾という貧民らしからぬ堅苦しい名前にも表れていた。しかし、物心ついた時分にはもう父はおらず、痩せこけた母と弟妹だけがそばにいた。
あの町では、夕方になるとどこからともなく男たちがやって来て、大鍋に入ったどろどろとした汁物を売る。それは病院が捨てた残飯でできており、菜っ葉や鶏肉の骨などに加え、ごみや髪の毛も混じっていた。羽嶋は大工の棟梁の元で働いて弟妹を養っていたが、そうした安い飯しか買ってやれなかった。
人懐っこいとか明るいとか言われるが、考え込んでいては生きていけないから、深くものを考えないようにしていただけだ。
だが、羽嶋が十五歳の年に家族は流行病で羽嶋を残して死んでしまった。
生きる意味がわからなくなり、羽嶋は東京を離れた。この世界のどこかに、自分の居場所があるのではないかと思いたかったからだ。
だけど、そんな場所はなかなか見つからなかった。
そうして日銭を稼ぎながら流れ流れて、なぜだか奈良に辿り着いた。
特技もやりたいことも何もなく、神社の境内でぼんやりと宮大工の仕事を見ていたら、棟梁に声をかけられた。何でも、豊太郎の工場を建てるのに人手が足りないのだという。心得があったし、幸い図面を覚えるのが得意だったので、棟梁は羽嶋を殊更に可愛がってくれた。
印刷所は無事に竣工したが、そのあとすぐに棟梁が大怪我をして宮大工の組は解散。
またしても路頭に迷ったところで、工事の施主だった豊太郎と再会した。
豊太郎は宿無しで文無しの羽嶋を、快く家に住まわせてくれた。
活版印刷所では最低限の読み書きができないと困るが、二年生で小学校をやめてしまった羽嶋に対し、ハツ子が丁寧に教えてくれた。
あそこでの暮らしは、楽しかった。
ほとんど文字が読めなくとも、羽嶋は活字がどこにあるかを即座に覚えられたので、あっという間に工場の主力になった。
そんな生活が暗転したのは、奈良に移り住んで三年目だ。
組んだばかりの版を確認してもらうために豊太郎を探しに行くと、工場の庭に彼が血塗れで倒れていたのだ。
──社長!
驚いて抱き起こすと、彼は口から血を吐き出した。
羽嶋が呆然としていると、敷地内にある自宅の二階から駆け下りてきた次郎と鉢合わせした。
次郎に人殺しと喚わめかれるまで、羽嶋は自分が疑われるなんて夢にも思わなかった。
馬鹿げた話だ。羽嶋が人を殺すわけがない。
そこまでの情熱も憤怒も、持ち合わせていないのだから。
そう言えばよかったのだが、根なし草の自分を誰も信じてくれないのではないかと不安が込み上げてきた。
急に恐ろしくなり、羽嶋は豊太郎を置き去りにして逃げてしまったのだ。
人生で後悔することがあるとすれば、その点に尽きる。
一度は逃亡したものの、豊太郎が心配で現場に戻り、燃え盛る印刷所を見て愕然とした。
そのうえ羽嶋はすぐさま警察に捕まり、夜となく昼となく取り調べを受けた。
──おまえは被害者に申し訳ないと思わないのか?
──すまないとは思っています。
世話になった恩人の手当てもせずに逃走したことに対し、羽嶋は深い悔恨を抱いていた。そのせいで咄嗟に謝ってしまったが、それを自白と解釈されたのだ。
漢字だらけの調書に捺印しろと命じられ、わけのわからないまま従った。
そのとき初めて、羽嶋は自分が犯行を認めたことになっていると知らされた。
それでも裁判のためにつけられた官選弁護人は、羽嶋に対して親身になってくれた。
真犯人に思い当たる人はいないのかと問われて一瞬は次郎を疑ったが、そこで羽嶋は思考停止した。
ハツ子は父を失ったばかりなのに、ここで旦那が捕まってしまったら?
ハツ子のためには、思う存分憎める、次郎以外の犯人が必要なのかもしれない。
豊太郎に対する義理を果たすためにも、そうしたほうがいい。
だいたい、自分には何もないじゃないか。
家族もなく、大切なものもない。自分の中に誇れるものは何もなく、望みも何もない。
ただ生きるためだけに生きているなら、監獄にいても娑婆にいても一緒だった。
人権問題だと息巻く児平には申し訳なかったが、羽嶋は大した熱意もなく敗訴し、ここに辿り着いた。
ここが自分の終の棲家でかまわない。
そう思っていたのだ──ついこのあいだまでは。
(続きは書籍でお楽しみください)
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8月23日刊行の、和泉桂さん初めての一般文芸作品『奈良監獄から脱獄せよ』の試し読みをお届けします。
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