買ったものをSNSに投稿し、SNSで買うものを決める――Z世代を中心とした意識の変化を分析する幻冬舎新書『タイパの経済学』より、内容を抜粋してお届けします。
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「若者の○○離れ」の真実
幸福観の変化は、消費に対する価値観をも変化させる。
モノを所有することがステータスかのようにマスメディアの広告は消費を喚起させ、必要ではないが生活を豊かにする(生活が豊かであるように見せつける)ことができるモノを人々がこぞって消費していた時代があったのも確かである。
しかし、このような消費の根底には「画一化された幸せ」があり、消費によって描けた幸せのビジョンやモノやレジャーに溢れていること自体が幸せだったから成立していた価値観であったともいえる。しかし、お世辞にも景気がいいとはいえない情勢や、そもそも画一化された幸せを魅力的であると思わないZ世代も多く、自分が必要としないモノに対して消費を行う際に理由や根拠を必要としているように思われる。
「ゴルフやれよ」「いい時計つけろよ」と、ある種ステータスを構築する消費を勧められても、「なんで(生活も苦しいし、欲しいモノも買えないのに、見栄を張って)欲しくもないモノを買わなくちゃいけないんだ?」という疑問が生まれてもなんらおかしくはない。
若者の消費に対する消極的な意識が「○○離れ」という形で揶揄されることもあるが、極論、どれもタダでもらえるのならば拒む人などいないのではないだろうか。だとしたら、そのモノやサービスが拒まれているわけではなく、自分自身の生活や収入などを考慮したうえで「必要ない」「購入することができない」と判断し、消費行動に移されていないだけにすぎない。
お金がないから画一化された幸せに手が届かず、手が届かないからそれを幸せとは認めないという見方ができるかもしれないし、画一化された幸せに手が届かないから違う形で幸せを見出しているという見方もできるかもしれない。どちらにせよ、自分たちが生きていくうえで、その不必要な消費によって生活が困窮するくらいなら消費しない、という価値観が生まれることは当たり前といえば当たり前だ。
SNSに投稿しないとその消費はないものと同じ
一方で若者、とりわけZ世代の市場環境は、それ以前の世代と比較すると、前述した通り、ネットの普及やなによりSNSがインフラ化したことで、得られる情報量が圧倒的に増加し、それに伴って消費したいと思うモノやコトと接触する機会も増えた。
今まで知らなかったことに興味を持ったり、潜在的な欲求を満たしてくれる商品やサービスに遭遇する機会も増え、自由に使えるお金は昔より減っているのに、欲しいと思うモノばかり増えていく時代なのである。
また、消費した結果をSNSに投稿し、他のユーザーからの反応を得ることを目的とした消費文化が定着していることも否定できない。どんな些細な消費結果でもSNSに投稿されるようになり、SNSには他人の消費結果が溢れている。
そのような他人の投稿(消費結果)は、消費に対する疑似体験としての側面を持っている。だからこそ、そのような投稿を見て消費欲求が駆り立てられたとしても、投稿とともにタグづけられているハッシュタグを見れば同じような消費結果で溢れており、わざわざ自分で消費(購買)する必要があるか、モノを所有する必要があるか、と検討する過程もZ世代の消費行動の一環となっている。
SNSに溢れているということは再現性が高く、言い換えれば誰がやっても同じような結果しか出ないのである。さまざまな消費の疑似体験がSNSに溢れていて、その現象、その商品、そのエンタメなど一つ一つの消費結果はおもしろそうに見えるからこそ、「わざわざ」自分が消費する必要があるのか探究し、他人の投稿結果の閲覧で満足できてしまえば、消費行動に「わざわざ」移す必要がないのである。
ある意味で他人の行動を検討しているからこそ、自らの消費行動を顧みて消費の必要性を判断しているといえるかもしれない。ましてやネットのブームのサイクルは速く、皆がこぞって消費しているときに真似しても投稿に対する反応は薄くなり、ブームが過ぎたころにやれば今さら感が生まれてしまう。もちろんSNSに投稿しなければいいだけの話なのだが、投稿しないと(可視化されないと)その消費はないものと同じという、他人を意識して消費がされるという文化が深く根付いているのである。
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この続きは幻冬舎新書『タイパの経済学』でお楽しみください。