ナチスの台頭によりヨーロッパのユダヤ人はパレスチナへ――妥協点の見つからないイスラエルとハマスの軍事衝突の背景にある中東情勢が良くわかる!と話題の書籍『なるほどそうだったのか!! パレスチナとイスラエル』より、一部を抜粋してお届けします。
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1930年代に入ると、ヨーロッパからユダヤ人を押し出す圧力が強まった。それは、1933年にドイツでナチスという名の政党が政権を取ったからである。ナチスは、神は世界で一番優秀な民族としてドイツ人を創られた、と主張した。
民族の優秀性は、その強さによって証明されている。古来、ドイツ人は、強い民族として知られてきた。にもかかわらず、ドイツ人は、国内にユダヤ人の存在を許し、ユダヤ人と混じり、その優秀な民族の血の純潔を汚してきた。それに対する神の罰が、第一次世界大戦でのドイツの敗北であった、というのである。
こうした議論から出てくる考えが、ユダヤ人の排除であった。ドイツ国内で差別が激しくなると、ユダヤ人たちは脱出を始めた。しかし、各国は国境を閉ざし、ユダヤ人を積極的に受け入れる国はなかった。やむなくユダヤ人たちは、パレスチナに流入した。これによって、多数のユダヤ人をパレスチナに送り込むという、シオニストになしえなかった事業をヒトラーが達成したのだった。
資本と技術を持ったユダヤ人の流入で、パレスチナのユダヤ人の社会は大いに発展した。パレスチナ管弦楽団(現イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団)ができたのも、1936年のことである。
しかし、ユダヤ人社会の発展は、現地のパレスチナ人の反発を引き起こした。両者の摩擦が激しくなった。そして、1939年に第二次世界大戦が始まる。第二次世界大戦の開戦段階では、ドイツとイタリアを中心とする枢軸諸国が優勢であり、イギリスやフランスなどの連合国側を圧倒した。
ドイツは、フランスを打ち破ったのを含め、ヨーロッパ大陸の大きな部分を占領した。そこでは、ユダヤ人の絶滅政策が開始された。ポーランドのアウシュビッツを始め、ヨーロッパ各地に強制収容所が建設され、そこにユダヤ人が送り込まれ虐殺された。その数は、最終的には600万人に達した。
その後、連合国側が反撃に出て占領地を解放すると、次々に強制収容所での虐殺の実態が明るみに出た。世界はショックを受け、ユダヤ人に同情的な国際世論が生まれた。
第二次世界大戦が1945年に終結すると、ヨーロッパで生き残ったユダヤ人たちは、パレスチナを目指した。
その頃のパレスチナの情勢は、どうなっていたのだろうか。第二次世界大戦に関しては、中東全体のムードはドイツ寄りであった。イギリスやフランスの支配下にあった人々が、イギリスやフランスを敵に回して戦うドイツに同情的なのは自然であった。
しかし、パレスチナのユダヤ人社会は、親イギリスであった。ユダヤ人を迫害しているナチス・ドイツと戦うイギリスへの支持は、これもまた当然である。ドイツの勝利は、ユダヤ人の全滅を意味したからだ。しかしながら、第二次世界大戦の行方が明らかになると、つまり、連合国側の勝利が確実になると、パレスチナのシオニストたちは、反イギリスに転じた。イギリスを追い出し、パレスチナに自分たちの国を建設したかったからだ。
イギリス軍に対するゲリラ攻撃を、シオニストたちは開始した。イギリスから見ればテロ攻撃である。
このゲリラとかテロという言葉は難しい。ゲリラとは、正面から軍隊と対決するのではなく、民間人などの間に身を隠し、隙を見て軍隊の背後から、または夜間などに攻撃をする人々のことを言う。あるいはその戦法をゲリラと言う。通常は、力の弱い勢力が強力な軍隊に対抗する手段の一つである。
テロというのは、ある政治的な目的を達成するために、暴力を行使する行為のことである。たとえば、指導者の暗殺などはテロである。テロとゲリラの区別は、あいまいである。たいていの場合は、攻撃をしかけている方は、自らの攻撃をゲリラと呼び、受けている方は、それをテロと呼ぶ。
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