世界を動かしたイギリス帝国はなぜ衰退したのか? 最新の「グローバルヒストリー」研究によって、イギリス帝国の実態が明らかになってきた。
秋田茂さんの最新刊『イギリス帝国盛衰史』から一部を試し読みとしてお届けします。
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帝国の終焉を決定づけたスエズ戦争
第二次世界大戦直後の一九四〇年代後半のイギリスは、アメリカを頼りつつも、まだ、アメリカ、ソ連に次ぐ第三の大国であったといっていいだろう。だが、それは帝国植民地を完全に手放してはいない段階の話だ。その後、植民地の独立が相次いでも、イギリスはコモンウェルス諸国への影響力を含めることで、なんとか第三の勢力として生き残れるのではないかと、あるいは、生き残りたいと考えていた。
しかし、それも冷戦が本格化していく過程で、一九五〇年代初頭には限界が見えてくる。
そして、もはや帝国の維持は難しいという現実を突きつけられるのが、一九五六年のスエズ戦争(第二次中東戦争)であった。
インドを失ったイギリスにとって、残された中東の権益は大きな意味を持っていた。しかし、
ナショナリズムの波はアラブ諸国でも強まっており、イギリスはイランの石油権益を一九五〇年代初頭(一九五一年)に失い、またエジプト政府の要求によって、スエズ運河沿いの軍事拠点からの全面撤退も余儀なくされた。スエズ運河をめぐる紛争が起きたのは、イギリスが中東において、このような困難に直面している最中であった。
スエズ戦争のきっかけは、一九五六年十月、エジプトのナセル大統領によるスエズ運河国有化宣言であった。
一八六九年に開通したスエズ運河は、一八七五年にイギリスが運河株の四割強を買収して以降、その利益のほとんどが、株主であるイギリスやフランスに分配されており、現地エジプトにはごくわずかな利益しかもたらしていなかった。一九五二年にエジプト革命を成功させたガマール・アブドゥル・ナセルは、大統領に就任すると工業の近代化に必要な電力を得るため、ナイル川の上流にアスワン=ハイダムの建設を計画した。当初その費用は、西側諸国と世界銀行からの融資(借款)が約束されていたのだが、ナセル大統領が自国の軍事力強化のために、ソ連圏のチェコスロヴァキアから武器を購入することを決めたため、米英は制裁としてこの援助の約束を撤回。西側からの援助を受けられなくなったエジプトは、スエズ運河を国有化することでダム建設に必要な資金を得ることを考えたのである。
アメリカはこの問題を国際会議で解決することを目指したが、スエズ運河の国有化によって利益を喪失するイギリスとフランスは、一九五六年十月、当時エジプトと敵対していたイスラエルと共謀して、軍事作戦に踏み切ったのだった。
イギリスにとっての誤算は、時勢を読めなかったことだろう。
この軍事行動は、国連における非難決議に加え、国内外からの激しい批判にさらされたのである。
さらに、スエズ運河が閉鎖されたことで中東からの石油の供給が止まると、国際金融市場で大規模なポンド売りが始まり、イギリスは大量の外貨準備を失い、「ポンド危機」に直面することになる。国際批判と金融危機に直面した結果、英仏軍は、わずか一週間ほどで戦闘中止・撤兵を余儀なくされた。
これによってイギリスは、中東における地位と権威、そして権益を失っただけでなく、米英関係の悪化、さらにはカナダ、インドといったコモンウェルス諸国が軍事行動に激しい非難を行ったことで、コモンウェルスにおける政治的結束までも失うことになったのだった。
これ以降イギリスは大国幻想を捨て去り、アメリカとの関係修復に全力を注いだ。それは、アメリカのヘゲモニーのもと、ジュニア・パートナーとして生き残る道を選択したことを意味している。