2019年10月、福岡県・太宰府市で平凡な主婦の凄惨な遺体が見つかった。「太宰府主婦暴行死事件」と言われるこの事件は、洗脳し、暴行を繰り返した犯人の非道、残虐もさることながら、被害者家族から何度も相談されたのに向き合わなかった鳥栖警察署の杜撰な対応が問題視された。
その事件を追った報道特別番組「すくえた命~太宰府主婦暴行死事件~」は2021年日本民間放送連盟賞番組部門・テレビ報道最優秀賞受賞を受賞。その番組作りに取り組んだ、テレビ西日本の塩塚陽介記者による、胸が熱くなるノンフィクション『すくえた命 太宰府主婦暴行事件』が刊行されました。
本書より試し読みをお届けします。
* * *
プロローグ
九州最大の歓楽街・中洲から那珂川を挟んだ場所に位置する西中洲。この一帯は、観光ガイドに載っていない地元民御用達の飲食店が軒を連ねている。
その一角にあるイタリアン酒場の2階で「夜の取材活動」に勤しんでいた時、スーツの胸ポケットに突っ込んでいた社用携帯が鳴った。
接待相手の前を申し訳なさそうにしながら急いで通り抜ける。
階段を下りて、店の外に出た頃には着信は止んでいたが、すぐにかけなおすとそのことがわかっていたかのようにゼロコールで相手に繋がった。
「おう! 塩塚、すまんすまん!」
警察班キャップの西川さんだ。
「どうでした?」
私は飲み会中もずっと気になっていた、件あのをすかさず聞いた。
「実家はおばあちゃんしかおらんくてさ、『私にはわからん』って言われたけん名刺だけ置かせてもらったんやけど、戻ってる時に被害者の妹さんから電話がかかってきて、ちゃんと事情を説明したら誤解は解けたよ」
この日、事件の周辺取材を巡って新米記者とご遺族との間でボタンの掛け違いが生じ、トラブルになっていた。その誤解を解きに西川さんが佐賀まで行っていたのだ。
「そっちはどんな感じ?」
「盛り上がってます。みんなご機嫌に飲んでますよ。頃合い見て工藤會の捜査状況聞いときますね」
こちらは若手の捜査関係者とのいわゆる親睦会。
記者は日々、まだ世間には知られていない事件の捜査進捗や着手時期の情報を探っている。
ニュースは必ず「警察によりますと」などとソースを明示して書かれるが、それはいわゆるオフィシャルの発表だ。
事件の経緯がわかる容疑者の細かい供述や、客観的に見て犯人であると断定できる証拠が見つかったというような核心部分となると、警察はあまりオフィシャルな発表をしない。
警察や検察はあくまでも逮捕・起訴をし、裁判で有罪を勝ち取ることを目標にしているため、その武器が世間に知られてしまうと裁判で不利になったりしかねないからだ。そこで記者はアンオフィシャルな取材で事件の詳細の情報を補塡する。これがよくニュースで耳にする「捜査関係者によりますと」というくだりだ。捜査関係者とひとくくりにしているが、それは捜査本部の末端刑事かもしれないし、容疑者が勾留されている警察署の幹部かもしれないし、あるいは検察官かもしれない。こうしたアンオフィシャルな情報をいつでも聞ける関係を捜査関係者と構築しておくことで、容疑者の任意同行の瞬間を撮影できたり、他社よりも早く記事にしたりできる。
「特ダネ」や「独自」などと枕詞をつけて報じられるこれらのニュースは、記者にとってこの上ない喜びで、その社の価値を高めると信じられているのだが、この飲み会もそうした関係づくりの一環だった。
「引き続き頼むわ。でさ、そこの誤解は解けたっちゃけど、被害者の妹さんが気になることを言っててさ。『私たちは事件前に何度も鳥栖署に相談してたのに、全然動いてもらえんかった。警察のせいで瑠美は殺された』って」
「なんです? その話」
元々アルコールには強くないが、若い捜査関係者たちのお作法に付き合っていたせいもあり、思考が一瞬フリーズした。だが、ちゃんと働いていないフワフワとした頭の中で「妙な納得感」もあった。
被害者が赤の他人と謎の同居生活を送っていたという状況。十数年連絡を取っていなかった高校の恩師への金の無心。入り組みすぎて一つも筋が見えなかった事件の背景の一端が、なんとなく正体を現した気がした。 明日詳しく話す、と言って西川さんの電話が切れると、大きく伸びをして煙草に火をつけ 16 た。いつも柔和な西川さんが、少し緊張した様子で口にした「警察のせいで殺された」とい う言葉。
「……明日、話を聞いてからだな」
そう。今日はまだやることがたくさんある。
煙草を2、3回吸って揉み消すと、少しひんやりとした秋の空気を名残惜しく思いながらも再び戦場に戻る。
この時は、まさかノンフィクションの執筆まで手掛けることになる取材の始まりだとは、考えてもいなかった。