完全予約制の、知る人ぞ知る『猫屋台』の女将であり、吉本隆明氏の長女・ハルノ宵子さんがその日乗を綴った『猫屋台日乗』より「真っ当な食、真っ当な命」をめぐるエッセイをお届けします。
ホットドッグを頼むと、ちょっと意外だった。バターロールに、ウィンナーとキュウリが挟んであり、(さほど辛くない)からしバターに、ちょいケチャップという、どの家でも作れる味だ。それが2個お皿に載って出て来る。しかしこれが、絶妙に美味しかった。2個はペロリといけ、なんならおかわりをしたい位だ。
コレ、どこかで食べた懐かしい味だよなーと、考えてみると、そうかコレ、私が高校受験の時、お夜食として、母が作ってくれたホットドッグじゃないか!
原点回帰の味
20代の頃、雑誌の巻末アンケートで、「地球最後の日には何を食べますか?」という、お題が出た。
私は特に悩むことなく、「ホットドッグと生ビール」と答えた。それは、前期高齢者になんなんとする現在でも、変わっていないのだ。
普通、様々な美食を味わい尽くした揚げ句の原点回帰──白い炊き立てのご飯と塩鮭とか、故郷の芋煮鍋とか、実家のカレーライス、なんてところだろうか。まったくもって、残念な婆さんだ。
妹が、かつてこのことを南伸坊さんに話したら、「お姉さんは、野球が好きなんですね」と、言われたそうだ。「ああ! なるほどね」。気がつかなかった。言われてみれば確かに、ホットドッグと生ビールは、アメリカの野球観戦定番メニューだ。しかし意外にも、私は球場でホットドッグを食べたことは、1度もないのだ。
1度だけ「阪神甲子園球場」に、行ったことがあるが、最下位に低迷していた時期だったし(しかもデーゲーム)、あこがれの甲子園球場1塁側内野席なのに、スッカスカで、どこでも勝手に座り放題、相手も横浜だし(あ! 別にバカにしてる訳じゃありませんよ)、1人まったりとゲームを眺めつつ(確か勝った)、生ビールを飲んだだけだった。
東京における、阪神タイガースの“聖地”「神宮球場」(最近は負けが込んでいるが)は、屋外で風通しも良いので、真夏以外はけっこう寒い。5、6月でも、日が暮れると冷えてくる。うどんなどの汁物を食べたいのだが、その類は、座席まで持って帰るのは困難だ。急な階段、狭い通路を「スミマセン、スミマセン」と、観客に足を引っ込めてもらい、恐縮しながら何とか通る。ちょっとでも蹴つまずこうものなら、熱々の汁を人の頭にぶっかけかねない。無事に座席まで持って帰れても、置き場所がないので足下に置く。チャンスの場面で立ち上がろうものなら、必ず器を蹴飛ばして終わる。なので神宮名物3塁側売店のうどんも、絶対余裕(か、大負け)の試合で、相手(ヤクルト様)の攻撃中に、スタンド外で食べたきりだ。いつもポテトフライやたこ焼きをツマミに、売り子のお姉さんのビールを飲みまくるハメになる。ちなみに、野球場のビールをあなどると、ヒドイ目にあう。あのプラカップや紙コップは、500㎖(実質480㎖)だ。いつもは3杯だが、うかつに4杯目をいくと、2、3時間の短時間に、480×4だ。さすがにヘロヘロになる。たいへん危険な飲み物なのだ(って、悪いのは私ですが)。
また、3塁側外野スタンドなんぞにいようものなら、飲食不可能だ。終始立ち上がり(じゃないと見えない)、応援団に合わせて声援を送り歓声を上げ、6回裏2アウト頃から、ジェット風船をふくらませ始め、7回を前に飛ばさねばならないのだ。そんな応援も、今は昔となった。世代が替わり、球場にも若いオシャレな女性が増え、応援もスマートになった。
3年間のコロナインターバルもあり、オヤジ野球文化は、終焉を迎えた。
神宮球場と同じ位、(敵地)東京ドームで観戦する機会があった。かつて糸井重里さんが、“年間シート”のペア席を持っていて、余るとうちに回してくれたので、母や友人とよく行った。しかしそれは、1塁側のバックネット裏、かなり前の方だった。完全アウェイ席だ。周囲は会社のおエライさんが(どう見ても奥さんじゃない)女性を伴って来ていたり、業界っぽい人が多かった。阪神がヒットを打っても、「わ~!」パチパチパチなんて遠慮がちに拍手したりして、居心地悪いったらない。そして阪神の負けが見えてくると、7回位で早々に退席した。巨人ファンが歓喜する姿だけは見たくない(野球となると、いきなり心が狭くなるオレ)。その後外で飲み直すのが常だった。
しかし東京ドームは、ホットドッグ最大の“聖地”だと思っている。球場内の売店にもあったと思うが、ドームを含める遊園地と、道を挟んだ温泉施設やショップが入る「ラクーア」をすべて引っくるめた「東京ドームシティ」内には、ホットドッグショップが点在している。ラクーアの2店は、最近撤退してしまったが、たぶん、パブのメニューの中にあると思う。
ドームシティのホットドッグは、各店舗トッピングのアレンジはあるが、ドッグパンとソーセージだけは共通で、王道を行っている。プロ野球草創の時代を彷彿とさせる、基本を外さない味と形なのだ。
パンは、コッペパンがちょっと細めになった感じだ。単独で食べたら、特に美味しいとは思わないだろう。ソーセージも、スパイスなんか効いてない。みんな大好きウィンナーが、やや太めで長くなっただけだ。しかしこの2つが組み合わさると、絶妙なのだ。本当に何も塗っていないパンに、軽く温めたソーセージを挟んだ“だけ”メニューもある。そこにマスタード、ケチャップはお好みで──この乱暴さは、いかにもアメリカの野球場っぽい(行ったことないけど)。
ドームシティには、24時間営業(当時)の温泉施設がある。その中の、深夜でもぶっ通しで開いている軽食店のメニューにも、ホットドッグはあるが、夜ふけのホットドッグは、さすがにキツイので、いつも生ビール1杯で、1度も頼んだことはない。
最近のホットドッグは、ソーセージがフランクフルト位ぶっとかったり、粗挽きすぎて食感が悪かったり、チョリソーを使ったり、邪道だ。パンにもゴマがまぶしてあったり、何か練り込んで色が着いていたり、パン生地自体がクロワッサンだったり、バゲットだったり ──もうそれ、ホットドッグじゃないから。
確かにハンバーガーに比べて、アレンジがしにくいので、そこに手を加えたくなる気持ちは、分からないでもないが、ホットドッグにおいて、パンとソーセージだけは、不可侵領域なのだ。
手近に買える好みのホットドッグなら、コンビニSやDコーヒーチェーンのが、けっこうイケる。時々買うけれど、やはりパンのショートニングの匂いが気になってしまう。なので、アレンジを加える。追いマスタードとして、和からし+粒マスタードをこってり塗ったくり、市販のザワークラウトとスライスピクルスを詰め込む。
他にもFネスの、刻み玉ネギをイヤ~ッて程載っけたホットドッグや、チリドッグも好きだったのだが、このコロナの間に、メニューから消えてしまった。やはり万人受けしない、手間やコストがかかるメニューから、削っていくしかないのだろう(注・最近モーニングでは復活したようです)。
中学校の同級生で、時代劇ファン繋がりで、仲良くなった友人がいる。彼女はとてつもない変人で(人のことは言えないが)、まず人間としての思考回路が、根本からして異星人なのだ。彼女は究極の“お子ちゃま舌”で、肉や魚も、野菜も食べられないのだが、餃子や焼きそばなど、加工されていれば、だいじょうぶなのだ。しかし味覚は確かで、彼女が美味しいと言う物は本当に美味しい。 お互い高校生の頃(別々の高校に進んでいた)、上野御徒町の喫茶店に、すっごく美味しいホットドッグがある──と言うので、2人して出掛けた。春日通りに面した広々とした、昭和レトロな店だ(って当時マジ昭和だからね)。クリームソーダやナポリタン、プリンアラモードなんかがある、由緒正しい喫茶店だ。
ホットドッグを頼むと、ちょっと意外だった。バターロールに、ウィンナーとキュウリが挟んであり、(さほど辛くない)からしバターに、ちょいケチャップという、どの家でも作れる味だ。それが2個お皿に載って出て来る。しかしこれが、絶妙に美味しかった。2個はペロリといけ、なんならおかわりをしたい位だ。
コレ、どこかで食べた懐かしい味だよなーと、考えてみると、そうかコレ、私が高校受験の時、お夜食として、母が作ってくれたホットドッグじゃないか! 母はガッチガチの几帳面なので、料理をやるとなったら、調味料のグラム数から、素材の品数まで、料理本通りに作らなければ気がすまない人だ。「あ、ここはもっと濃い目にしよう」とか、「キャベツがないからレタスでいいか」のアドリブが、まったくできない。だから、料理でヘトヘトに疲れてしまうのは、よく理解できる。その母が作ってくれた、数少ない料理(?)が、こんな感じのホットドッグだった。
軽く温めたバターロールにバターを塗り、フライパンで炒めたウィンナーと、斜めスライスのキュウリを2枚。慎重な手つきで、それに1時間位かかっていた。 母が作るのは、白いご飯、納豆、豆腐、焼いた干物、海苔、ほうれん草を茹でただけ── オールオブ“だけ”料理だった。その中で、ホットドッグは、数少ない“おふくろの味”という訳だ。
昔「料理の鉄人」という番組で、中華の鉄人(その時、陳建一さんだったかは定かでないが)に、料理研究家の小林カツ代さんが挑戦したのを観たことがある。確かお題食材は“鮭”だったと記憶する。鉄人が技術を駆使し、趣向を凝らした料理を仕上げていくのに対し、カツ代さんは手慣れた感じで、鮭の炊き込みご飯など、ちょっと腕のある主婦(夫)ならできそうな、家庭料理を作り続けた。結果、小林カツ代さんが勝利したのだが、会場内には、そして鉄人にも「まぁ、カツ代さんだからな、花を持たせたんだよな」的な雰囲気が漂っていた。
「そうじゃないんだよ! 本当に美味しいんだって!」。シンプルな調理法で、ていねいに作ったフツーの料理は、最強なのだ。
父が『開店休業』の中で、「思い出と思い込みの味」と、表現していたが、それは別に、親の手作りの味とは限らない。
買い食いのコロッケの味、山でもいで、しゃぶったアケビの味、磯でほじって茹でたトコブシの味──それぞれの味が、楽しい思い出と共にあるのだ。
ホットドッグが、私の思い出の味とは、どうにも貧相だが、“最後の晩餐”として、○○ のサーロインステーキとか、○○の寿司だとか、○○のフカヒレ煮込みとかを挙げる人は、むしろ貧しいと感じるのは、私のひがみだろうか。