ことばのスペシャリスト集団・国立国語研究所が叡智を結集して身近ながらも深遠な謎に挑む、人気シリーズ第2弾『日本語の大疑問2』より、一部を抜粋してお届けします。
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学校のクラスは「くみ」ですか、「ぐみ」ですか
回答=南浦涼介
息子の疑問がSNSで大バズり
朝、小1の息子が私に、「ねえねえ、小学校って変なんだよ」と話しかけた。
「何が?」と私。「だってさ、保育園のときは、『ももぐみ』とか『たんぽぽぐみ』とか、『ぐみ』って言うじゃん。でも、小学校は『いちくみ』『にくみ』って『くみ』なんだよ」と息子が言う。それはね、と私は得意げに話そうとしてハタと困った。一瞬なんとなく、前の音に影響されて清濁が決まるのだと思ったのだ。しかし同じ「な」であるにもかかわらず、「7」は「ななくみ」と濁らないが、「はな」ならば「はなぐみ」と濁る。たしかに……なぜだろう、説明ができない。
ちょっとおもしろかったので、自分のTwitter(現X)のアカウントに書いてみた。
そしてバズったのだ。最終的に「83000いいね」がついた(画像では82000になっている)。いくつかコメントを見てみたい。
・失礼します。アルファベットもA組(ぐみ)B組(ぐみ)なんですが、宝くじはA組(くみ)……ひらがなも「め組(ぐみ)」ですね。
と、アルファベットにすると「くみ」の場合も「ぐみ」の場合もあるという現象の報告。
・幼稚園の頃と、中高がアルファベットだったんですが、AくみBくみと言っていました! でもあれですね、金八先生は3ねーんBぐみーって言ってますね…… 個人的にA~Eは「ぐみ」でもしっくりくるんですが、F以降は「くみ」じゃないとなんだか変な感じがします……不思議……
金八先生は「ぐみ」だったということを思い出す人も。
またしばらくすると「ぐみ」になるのは「複合語」(本来別のものである二つ以上の単語が結合して、別の一つの単語となったもの)だからではないのか、という視点が生まれる。
・他の方もおっしゃってますが、助数詞としての「組」のときに「くみ」、が正解っぽそうですね。助数詞のときの「くみ」は尻下がりに発音されて、それ以外は複合語として扱われるから尻上がりに発音されて自然と「~ぐみ」になる。
なお、助数詞は数を表す語の後に添える語のこと。1台、2枚、3本……など。
しかし、そうして話がまとまりそうになった瞬間に、
・数字でも千、万、億、……の後に続いたらぐみになりそうですね
と、数字でも大きな数になると「ぐみ」になることが見られるという話が提示。
このように、考えが浮かんでは新たな反証が入り、という形が取られて新たな参加者を生みながらゆるやかに議論が進んでいった。
学校の制度が連濁を生み出す?
さて、こうした議論の中で、(専門家の意見のツイートもふまえて)見えてきたことがある。この話の根底にあるのは「連濁」の話である。前述のツイートの中にも出てきたが、つまり、本来二つの語であったものが結合して一つの語となると、結合した後ろ側の語の最初の音が濁音化するというものである。だからもともとの「ももぐみ」という保育園の名称は「もも+くみ」で一つの語になり、「ぐみ」になるのだ。
しかし残るのは、「(1)数字だと『くみ』になるのはなぜ?」という問いと、「(2)数字でもアルファベットでも場合によっては『ぐみ』になることがあるのはなぜ?」という疑問である。
ここで考えてみると、(1)については、「学級」の場合、「クラス数を数える」という発想が生まれやすいのではないだろうか。つまり、「1組」「2組」の数字はあくまで「数える」という「数詞」意識が働くために「名詞の複合」という発想になりにくいということである。小学校の場合、保育園と違ってより鮮明に「学級」の上に「学年」という要素が入る。そのため「1年生の第1学級(1年1組)」「1年生の第2学級(1年2組)」と「数える」に重きが置かれやすい。
ところが保育園のような「ももぐみ」「たんぽぽぐみ」の場合は数字でクラスが作られていない。そのため、もともと「数え」の発想が働きにくいのだろう。保育園も学年の発想はある。しかし幼児教育、就学前教育の文化と目的から、系統的な管理の発想が弱く、結果的にそのクラスを単体で扱う発想との親和性が高い。
すると、(2)の謎も解けてくる。つまりアルファベットの場合も「数える」行為で捉えられやすい場合は「A組」「B組」も「くみ」となるのではないだろうか。宝くじが「くみ」となるのは明らかにそこには「数える」行為が入っているためで、二つの語は結合していないのだ(ちなみに「万」「億」が「ぐみ」になりやすいのは、ここには「数える」よりも単に「大きい数」という意味がとられやすいため、結合して連濁するのだろう)。
「2年A組」の場合はどうだろうか。この場合はやはり「くみ」となることが多そうだ。しかし金八先生は「B組(ぐみ)」だ。
恐らく金八先生の場合「B組」しかフォーカスがあたらず、他のクラスを数えたり意識したりすることが希薄なのではないだろうか。金八先生においては「A組(ぐみ)」「B組(ぐみ)」と続けて言うことがあっても、「B組」における個別クラスの物語が主軸であって、学校における管理の発想としての「クラスを数える」意識は薄いのかもしれない。
こうしたことから、金八先生の場合は、基本的にはクラスの序列性よりも個別性に視点が置かれた「B組(ぐみ)」なのでは……とも考えたが、これは言い過ぎだろうか。連濁の問題だけでなく、ここには学校の制度や文化、クラスの捉え方や位置づけ方の問題が入り込んでいる。
ともすると「炎上」ばかりが話題になるSNS。しかしこういうふうにみんなが一生懸命考察を展開するのは美しく、熱い。ねがわくば、見知らぬ多くの人たちが、互恵的に探究しあっていく世界が今後もありますよう。
南浦涼介(みなみうら・りょうすけ)…広島大学大学院 人間社会科学研究科 准教授。専門は小中高等学校の教師教育、教育学、外国人児童生徒教育学。普段は学校教育の中の言語や文化の多様性に関心を持っているが、二児の育児の中で子どものことばの獲得のふしぎや面白さもついつい分析っぽく見てしまう。